「懸案は台湾…」田中角栄元総理が“命を賭して”実現した日中国交正常化 娘・真紀子氏と“密使”が語る舞台裏【報道特集】

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2022年10月6日 (木) 10:51
「懸案は台湾…」田中角栄元総理が“命を賭して”実現した日中国交正常化 娘・真紀子氏と“密使”が語る舞台裏【報道特集】

日本と中国の国交正常化から50年を迎えた。それは台湾との断交の歴史でもある。田中角栄元総理の長女・田中真紀子氏と、台湾に密使として送り込まれた自民党元職員の男性がその舞台裏を証言した。

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■「中国に自由に往来できるよう、お父さんは死を覚悟して行く」

50年前、中国に渡り日中国交正常化を果たした田中角栄元総理。その娘、真紀子氏が報道特集の取材に応じた。

田中氏はそれまで、外遊に真紀子氏を連れて行くのが常だったが…

田中角栄元総理の長女・真紀子さん
「ただし中国はダメだった。あの国、お父さん刺されるか、毒を盛られるか。2人が殺されてしまったらご先祖さんに申し訳ないので、だからお父さんは今回は1人で行くって。『お父さん約束違反だ』と言ったら『違う。必ず真紀子や色んな人たちが自由に往来が出来る時代を作るために、お父さんは死を覚悟して行くんだ』と」。

国交正常化には、いくつもの高いハードルがあった。当時32歳の民間人に秘策が託された。

“極秘”と記された文書。50年前、日中国交正常化をめぐり田中角栄総理と中国の周恩来首相が、北京でどんな協議をしたのかがつぶさに記されている。

懸案は台湾だった。

田中角栄 総理(当時)
「台湾は日中国交正常化後は戦争状態に戻ると言っているから、日本の総理としては困っている」

周恩来 首相(当時)
「台湾にいる連中は小さな波乱は起こすが、大きなことはできない。これを小細工と言う」

1945年、大戦が終結すると、中国では毛沢東率いる共産党と蒋介石率いる国民党・中華民国が内戦状態となった。その結果、共産党が勝利し「中華人民共和国」を樹立。一方、蒋介石の「中華民国」は台湾に逃れ、双方が正統な中国の代表であると訴えた。

これが「一つの中国」問題である。

日本は中華民国=台湾を支持。蒋介石は日本が負うはずだった戦後賠償の請求権を放棄する事でそれに応えた。

それでも田中角栄総理は、例え台湾との国交が絶たれたとしても中華人民共和国=中国と国交を結ぶことを急いだ。

田中角栄 総理(当時)
「私は日中両国が正常な状態になることが望ましい、ということは日本人全てが考えていることだと思います。そういう機運も熟してきた」

膳場貴子キャスター
「田中総理は総裁選に出る以前から、日中国交正常化に向けての準備をなさっていたのでしょうか?」

田中真紀子さん
「日本の国の発展のために、絶対に中国とは良い関係を作らなければいけない。しょっちゅう茶の間でも言っておりました」

1972年2月、アメリカのニクソン大統領が中国を訪問。中国との関係強化に舵を切った。

日本も国際的な流れに乗り遅れてはならないとの焦りが急速に広がった。

■「台湾を捨てちゃいかん」自民党内は親中国派と親台湾派が罵声の怒鳴りあい

一方自民党内には「反共産主義」の立場から中国を警戒し、台湾との国交継続を求める議員たちが大勢いた。親中国派と親台湾派で、日々激しい議論が交わされていたという。

親台湾派 ・中山 正暉 元郵政大臣
「罵声で怒鳴りあいですよ。それはひどかったですよ。台湾を捨てちゃいかんと」

中山正暉 元郵政大臣
「(蒋介石は)毛沢東にやられるまで日本のために努力してくれた。日本人は中国でいろいろ悪いことをしたけれど、それはもう許してやろうと。『暴に報いるに徳を以てする』と言う言葉で日本に対しておおらかな判断をしてくれた」

「以徳報怨」(徳をもって怨みに報いる)。そんな言葉で戦後賠償の請求を放棄した蒋介石に恩義を感じる人も多かったと言う。中山氏ら若手議員は、後に「青嵐会」と呼ばれる政策集団を立ち上げるが、そのうちの1人・石原慎太郎氏は中国への強い警戒感をあらわにしていた。

石原慎太郎氏
「中国が大きな経済国家として台頭してきた時、一番先に甚大な被害を被るのが日本です。政治的にも経済的にも、軍事的にもやっかいな存在になり得る国と、これからもっとやっかいな問題が起こってくると思う」

さらに親台湾派には、安倍元総理の祖父・岸信介元総理が名を連ねていた。

岸信介 元総理
「いまアジアを徘徊している共産主義は、もはや過去の妖怪であるに過ぎません」

田中総理はこの親台湾派の説得に、大変な苦労をしていたと真紀子氏は言う。

田中真紀子さん
「当時の雰囲気を見てても、とにかくドタバタ忙しくて。会議ばっかりやっていて疲れて帰ってきて機嫌が悪く。(中国に)行く前の方がよっぽど疲れて、気苦労が多かった」

■「国交断絶」の“特使”受け入れぬ台湾へ 送り込まれた“密使”

田中総理は“親台湾派”の一人で、自民党の実力者、椎名悦三郎副総裁(当時)を台湾に特使として送り「国交を絶つ」意向を伝えようとしていた。だが、台湾はこの特使受け入れを認めない。そこで、田中総理と盟友の大平正芳外務大臣(当時)は議員ではなく、自民党職員の松本彧彦氏に秘策を託した。

1972年8月19日。松本さんは大平大臣の自宅に呼び出された。そして…

自民党元職員 松本彧彦さん
「(大平大臣から)いま外務省で中華民国大使館に対して、日本政府の台湾への特使の派遣交渉をずっとやってきているんだと」

特使を派遣できず困った大平大臣は、松本さんに“密使”として台湾に渡り、椎名氏の受け入れを説得するよう迫ったのだ。

自民党元職員 松本 彧彦さん
「外務省が一生懸命やってたわけですから、それで出来ないものを私が出来るのかと」

思わぬ大役に悩んだ松本さんだが、結局「密使」を引き受けた。

台湾に渡った松本さんは、つてを辿って総統府の実力者で蒋介石総統の側近、張群氏と会談にこぎつける。そして「特使が受け入れられないということになると、日本と中華民国(台湾)の間に、何かしこりのようなものが残ってしまい、私たち若い者たちの交流にも支障をきたしかねないと心配される」と特使受け入れの重要性を力説した。

自民党元職員 松本 彧彦さん
「(張群氏は)『君の話は良く理解できた』と。『じゃあ受け入れてくれますか?』と言うべきかどうか私も思ったんですがね、そこまでちょっと図々しく言えなかったんで、雰囲気は、これは悪くないなと思って失礼をした」

こうして特使受け入れが決まった。


■「断交の意向」伝えるはずの台湾で特使が告げたのは“外交の維持” 

そして1972年9月17日、椎名特使が複数の議員を伴い台湾へ。松本さんも一緒に交渉が行われる会場に向かった。ところが、待ち構えていたのは日本への激しい抗議だった。

デモ隊は「椎名帰れ」などと書かれたプラカードを掲げ、「蒋介石総統への恩を忘れるな」などと訴えた。

自民党元職員 松本 彧彦さん
「(空港を)出ようと思ったら(車が)囲まれちゃった。日の丸のステッカーを目指してガーンときて、粉々にガラスが散ったんですよ」

ガラスの破片を頭からかぶってしまった松本さん。すると同乗していた「ハマコー」こと浜田幸一衆院議員(当時)が一言

浜田幸一 衆議院議員(当時)
「我慢しよう」

銃を持つ警備の制止を振り切って車に詰め寄る市民たち。この激しいデモについて、松本さんはこう解説する。

自民党元職員 松本 彧彦さん
「一般のデモなんてないんですよ。だからこれは官製デモでね。政府がやらせているというか黙認しているというか分かりませんが」

その後、協議に臨んだ椎名特使。田中総理らに“断交の意向”を伝える役目を期待されていたが…

自民党元職員 松本 彧彦さん
(外交も含めて)中華民国との関係を維持・継続すると、こういう主旨の発言になる。『えーっ』と言って、みんな驚くわけです。椎名さんは当然総理の考え、外務大臣の考えは
知ってるわけですよ。百も承知ですよ。だから必ずこれは日中国交正常化をやる。日中国交正常化をやれば日台との国交が切れることは分かっているわけですよ。だけども、そんなことは言えない。言ったら大変なことになっちゃうから」

椎名特使はなんと“台湾との外交を維持する”と告げたのだ。なぜか…

松本さんが持参したメモには、中国との国交正常化交渉を進めるにあたって、自民党が党議決定した“ある方針”が書かれていた。

「中華民国との深い関係にかんがみ、従来の関係が継続されるよう、十分配慮のうえ交渉すべきである」

この「従来の関係」という言葉。「台湾と国交がある関係を継続する」ともとれる一方で、「外交関係を除いた民間ベースの関係を継続する」とも取ることができる、玉虫色の表現だった。

自民党元職員 松本 彧彦さん
「両方が自分たちに都合の良いような解釈を出来るようになっているんですよ。こうしないと収まらなかった。両派が自由勝手に解釈できるようにしておかないと」

椎名特使は、この“従来の関係”に“台湾との外交継続”が含まれると伝えたのだ。断交後の民間交流を見据えて、関係悪化を最小限に食いとめようという苦肉の策だったと松本さんは言う。

■見切り発車のまま北京へ 一命を賭して向かった田中角栄氏の覚悟 

一方、日本国内では田中総理が党内の親台湾派を説得しきれないまま、北京訪問の日を迎えようとしていた。

田中真紀子さん
「中国に出発する間際の時も、岸さんが来られて会っているんです。両院議員総会やってもダメなので最後、父は見切り発車。もう、まとまらないんだから何十年間も。自分の責任でやる。一命を賭して行く」

出発の日、目白の自宅を発つ直前、田中総理は…

田中真紀子さん
「父(田中総理)が左手に(孫の)雄ちゃんを抱っこして『北京はどっちだ?』って言ったら『あっち』って。『そうかあっちか。じゃあおじいちゃんはあっちに今から行きます。元気でね。必ず帰ってくるよ』って言って(孫を)下ろして。警護官に囲まれて車に乗って、ダーッと高速で行っちゃったんです」

そんな田中総理らを北京で待ち構えていたのは、周恩来首相。両者の間ではタフな交渉が繰り返された。台湾問題をどう扱うかが焦点の1つだった。

中国が「台湾は中国の領土の不可分の一部である」と主張したのに対し、田中総理は日本国政府として「その立場を十分理解し尊重する」と表明した。交渉記録には次のようなやり取りがあったと書かれている。

周恩来 首相(当時)
「明日大平大臣が調印後、記者会見で日台外交関係が切れることを声明されると聞いたが、大いに歓迎する」

田中角栄 総理(当時)
「我々は異常な決心を固めて訪中した。明日の大平大臣の記者会見で台湾問題は明確にする

そして1972年9月29日、日中両国は共同声明に調印。日中国交が正常化し、同時に台湾は日本との国交を絶った

■田中氏を待ち受けた最大の難関 “親台湾派”への説明 そして今、日本・中国・台湾の関係は…

大きな成果を得た田中総理だが、国内には最大の難関が控えていた。自民党内の親台湾派への説明だ。当時総理秘書官だった木内昭胤氏が、田中総理と一緒に日本に帰国すると…

木内昭胤 元秘書官
「橋本(登美三郎)幹事長(当時)がおろおろしながら『大変だ大変だ』と言うわけです。予想通り血気盛んな、青嵐会を担って立つ連中が、自民党本部でひしめいていると。田中総理は『俺はやるよ』と、ひとことを幹事長に言っておられましたよ」

日中国交正常化を果たした田中総理は中国から帰国後、自民党本部に直行し両院議員総会で経緯報告を行った。

田中角栄 総理(当時)
「私は最終的な決断を行うにあたっては、可能な限り最大の努力を傾けたつもりです」

渡辺美智雄 衆院議員(当時)
「台湾との関係についてはこれは断絶するということを言っておられるわけであります。憲法に規定が無いと言っても、こう簡単にできるものかどうか。今までのようなことを今後繰り返すということになれば、それは政府不信、党首不信、こういうようなことになることをおそれる」

田中角栄 総理(当時)
「誰がやっても困難な台湾問題とかそういう難しい問題は、自民党や政府がやり。いずれにしても日中の国交正常化は不可避だというのが私はおおよその世論だと思う。それが自由民主党の党議を決めた所以だと思います」

それから半世紀、日本と中国は関係を深めてきた。そして国交が絶たれた台湾とは、盛んな民間交流を続けている。

9月22日、日中国交正常化50周年を記念したイベントが都内で開催された。

田中元総理の長女・真紀子氏は、今の日中関係をこう表現した。

田中真紀子さん
「率直に申しまして現在、不幸なことに今は政府間の交流は滞っていると言わざるを得ません」

日本と中国、そして台湾。50年前に端を発したその微妙な関係は、今も続いている。