6月23日は沖縄慰霊の日。沖縄には、今からちょうど80年前に大本営直轄の第32軍が配備され、その後の地上戦に突入していきました。軍の存在は、どう沖縄の社会を変え、人々を戦争に導いていったのか。沖縄のいわゆる「戦前」から80年後の「今」を考えます。
【写真を見る】「平和なときに戦争は準備される」 80年後のいま…「戦後」は「戦前」になったのか【報道特集】
首里城の地下に「第32軍司令部壕」その構造は
火災から5年。2026年の完成を目指し再建が進む首里城。その地下にあるのが…
80年前に築かれた第32軍司令部壕。いま、保存・公開に向けた動きが注目されている。
その構造を克明に記したアメリカ軍の調査報告書「インテリジェンスモノグラフ」。
仲村真さんが、そのオリジナルを入手した。
沖縄県平和祈念資料館友の会 仲村真 事務局長
「沖縄で得た情報を今後の日本本土攻略作戦のための情報として、これをまとめたんですね」
沖縄戦をどう戦ったのかを総括し、押収した資料をもとに日本軍の軍備をまとめている。
捕虜への尋問から日本軍のモラル・士気について、「国のために死ぬという精神を忘れないよう促されていた」とする一方で、「多くは沖縄で敗北し、日本は負けると結論付けている」と指摘した。
さらに、司令部壕を丸裸に。1945年5月29日に首里城を占領すると、アメリカ軍は、すぐさま中に入り調査を始めた。
それは今に続く調査の拠り所になっている。この地下壕で決められた作戦が、兵士よりも住民の犠牲が上回る、重大な結果を引き起こした。
突然、家や学校が日本軍に… 沖縄戦へと導かれた住民
第32軍が創設されたのは沖縄戦開戦の1年前、1944年3月22日のことだ。その後、実際の配備が始まると、一気に沖縄は日本軍の色に染まっていった。
瀬名波榮喜さん(95)が入学したばかりの県立農林学校にも、突然、日本軍が入ってきた。いまも建つ校門には、無数の弾痕が残る。
瀬名波榮喜さん
「(学校は)司令部になったんです。彼らが入って来るや否や、すっかり学校生活が変わりましてね、我々は寮を追いやられました。校舎をすべて軍が接収しまして、校門の横に兵隊が二人立っておりましてね。衛兵というんですよ、兵隊が銃をもって待ち構えてるんですよ、出入りができなくなった。もう軍一色ですね」
その価値観に染め上げられた。
瀬名波榮喜さん
「戦陣訓というのがあったんですよ。恥を知る者は強しと、生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれと。心にしみこんでしまうまで叩き込まれる、自ら叩き込んだ」
そして、飛行場建設に駆り出される。のちにアメリカ軍嘉手納基地となる中飛行場だ。
瀬名波榮喜さん
「この地帯は農村地帯で、大豆とかサトウキビとか芋とかの生産地だった。岩山を壊しましてね、それをたたき割って、砕いて滑走路にばらまく」
さらに、いま世界遺産となった座喜味城で陣地の構築に加わった。
瀬名波榮喜さん
「空をついてそびえている松の木を、一本一本なぎ倒しました。それが終わりますと、城壁を破壊する。高射砲の砲台を造るんです」
生活も文化も破壊され、沖縄の風景は変わっていくばかりだった。
32軍が当初、司令部を置いた場所の近くに、翁長安子さん(94)の自宅はあった。当時15歳。自宅周辺に日本兵の姿が日に日に増えていった。
翁長安子さん
「朝6時になったらラッパの音が聞こえたから兵隊さんが行進するんだと。兵隊さんの行動が見えてきたんですね、射的場に行く」
ある日、軍は、軍馬を管理する32軍の獣医を自宅に寝泊まりさせ、医薬品も保管するよう求めてきた。
翁長安子さん
「いいですよ、役に立つならどうぞお使いくださいと言って、もう簡単に、父は。私は、びっくりしてなんで兵隊さんが兵舎でもないのに、ここに寝るの?って」
沖縄戦研究者の石原名誉教授は、2人の体験が表しているのは、日本軍による沖縄全島の軍事要塞化だったと語る。
沖縄国際大学 石原昌家 名誉教授
「32軍が上陸したときには、兵舎とかそんなのを準備できてなかったもんだから、民家に軍隊が同居するかたちをとる。民家だけじゃなく公民館、学校、全部軍事要塞化していく形で、要するに戦場の村化していくわけですね」
その過程で着任したのが、第32軍司令官・牛島満である。沖縄戦開始の7か月前。牛島は、すべての兵団長に、こう訓示した。
「現地物資を活用し一木一草といえどもこれを戦力化すべし」
「地方官民をして喜んで軍の作戦に寄与し進んで郷土を防衛するごとく指導すべし」
さらに、極秘の印が押された県民指導要綱に示した大方針が「軍官民共生共死の一体化」。
それからの新聞には、「軍官民一体」の文字が目立っていく。徐々に、軍と運命を共にする空気は醸成され、確実に県民のなかに刷り込まれていった。
瀬名波さんは、予科練=海軍飛行予科練習生に進んだ友にあこがれた。
瀬名波榮喜さん
「『若い血潮の予科練の~七つボタンは桜と錨~』この歌を歌って、さあ、あこがれの予科練へ、と手を挙げたのが、羨ましくてしょうがなかったですよ」
さらに、当時の空気を語る。
瀬名波榮喜さん
「戦死者が出た時どうなるか。これも大きな戦意高揚に貢献していると思う。沖縄戦前は戦死者が出ると村葬ですよ。ああいうふうに死にたいなという気持ちを持たせるんですよ、若い連中に。これほど名誉なことはありませんと。もう全部がそういうムードに浸ってるんですね」
「どこに行くかもわからない」「戦争だから誰も何と言うこともない」隠された住民の本音
一方で、翁長さんの一家は、葛藤していた。部隊にいる兄から、出征を知らせる手紙が届いたときのことだ。行き先は書かれていなかった。
翁長安子さん
「父親がそれが書けるもんか、しょうがないよ、もうそこまで行ったらお国のために働くしかないさ、と言ったときに、母親はこれを聞いて、泣いてましたよ。どこに行くかもわからない、ここまで育てたのは誰か、と言いたいさ、と母親が言ったんですよ。これ本音だなって思ったんですけど、言えないですよね。母はかわいそうだなと思いました。本音を吐いたなと思いましたけれども、なんか悲しいけれどもその思いが口に出せない、という、昭和19年(1944年)になってからの思いでしたね」
その年の暮れ。司令部は、翁長さんの自宅近くから、南風原町津嘉山の小高い丘に構築した壕に移動していたが、より強固な壕を求め、首里城の地下に移っていった。
そのすぐ近く、首里高校の前身、県立第一中学に通っていた與座章健さん(94)も、軍に学校を追い出され、陣地構築の日々を送った。
與座章健さん
「首里城というのは沖縄の聖地ですから、あんなとこにね陸軍司令部壕はいかんという気持ちは何となくあるんだけども、戦争だからね、誰も何と言うこともないし気がついたら…戦争はみじめだよね」
卒業まで一年を残し、強制的に繰り上げ卒業。鉄血勤皇隊に組み込まれ、家族に最後の別れを告げて来るよう命じられた。
與座章健さん
「(実家に)一晩か二晩おって、首里に戻るとき、あのときの悲しい思いっていうのはもう忘れられない。僕の一生はこれで終わりなんだなと思いながらさ、トボトボ一人帰っていったこと忘れられません」
全長約1キロ、深さ約30メートル 第32軍司令部壕で行われていたこと
数日後、アメリカ軍が沖縄本島に上陸。その進軍の目的地、首里城では司令部壕の構築がなお続いていた。
その作業に動員された、儀間昭男さん(96)。
儀間昭男さん
「中の壕を掘って、掘ったのは、あれは兵隊が掘っていたかな。われわれは、その掘り出した土をトロッコに積んで押して、入口からちょっと横に行ったところにこぼしてね」
いま、軍のありように抱いた疑問を思い出す。
儀間昭男さん
「地下に潜ってばかりおったですからね。地面のなかに暮らしておって、どうして戦争ができるかね。しっかりした強い軍隊とは考えてませんでしたね。何も意味ないですよ。そこに土があるから運び出す感じで、撤退するその日までやってるんだから、何も考えも計画もあったもんじゃないと思うんですよ」
かつての琉球王国の象徴、首里城。日本軍が、その地下に、学徒を動員して築いた司令部壕は、5つの坑口と坑道が作られた。全長は約1キロ、深さは約30メートルに及ぶ。
與座章健さん
「通路があって、真ん中から線路が通って、両方に大きな部屋みたいなやつはあちこちあって、そこにいろいろな集まりや会議したりしてるしね」
そんな司令部壕など戦跡をめぐるフィールドワークが行われた。仲村さんは、ここに垂直に掘られた入り口があったと解説した。
沖縄県平和祈念資料館友の会 仲村真 事務局長
「ここから最初に米軍が32軍司令部壕の中に入ったと。中枢部はちょうど皆さんが立ってるこの下あたり」
そのエリアにつながる坑道に、5月、カメラが入った。かなり水がたまり、足場は悪い。壁や天井には掘り進めたつるはしの跡。坑木も3本確認できる。残されていたビール瓶には、ダイニッポン・ブルワリーとあった。
沖縄の運命を決めた第32軍司令部壕 南部撤退で多くの避難住民が犠牲に
軍と住民の関係を象徴するともいえる場所がある。第5坑口だ。
牛島が訓示の最後に掲げた「防諜に厳に注意すべし」。陣地の構築などに動員してきた住民に、軍事機密を知られることへの警戒心からだった。
沖縄国際大学 石原昌家 名誉教授
「その後の沖縄県民総スパイ視、住民虐殺、集団死、そういう流れが牛島軍司令官によって作られたというふうに断言していいと思います」
それがよく行われていたという場所が、この第5坑口付近だ。
壕に出入りしていた當銘春子さんの手記に、スパイ容疑がかかった女性が虐殺される場面が記されている。
「戦意高揚のためと言って一人一人交替で銃剣で刺せということになって、下士官の『次、次』という合図で『エイ、エイ』と気合を込めて刺す。『アガ、アガ』と言って身を捻る姿。顔は見えないが、踞る様子は手に取るように見える。次第に自分の順番が迫って来る。どうしてもその気になれないでいる。絶体絶命、意を決し踵を返したら、一目散にその場から逃避して壕内に逃げ帰った」
本土決戦を遅らせる時間稼ぎのために32軍は、首里での決戦を避け南部へ撤退を決める。その際、脱出したのもこの第5坑口だ。南部には多くの住民が避難していた。軍民混在となった戦場で、住民の犠牲は軍人を上回った。
翁長さんは、南部で見た惨状を忘れない。
翁長安子さん
「なぜ首里でね、ここで負けたんだったら負けましたで降参すればね、あの人たちを殺さんでも済んだのになと。もう本当に殺された人たちがどんな思いで死んだんだろうな、あそこまで生きよう生きようと思って逃げたにもかかわらず、無残に殺された。そして遺骨は野ざらしになった」
沖縄の運命が決められた場所。それが、第32軍司令部壕だと、瀬名波さんは言う。いま、司令部壕を保存・公開する活動の先頭に立つ。
第32軍司令部壕の保存・公開を求める会会長 瀬名波榮喜さん
「人間としては、当然あるまじきことが堂々と行われていた。人間性が失われておったんだ、獣性をもって、獣の性質をもっておった、それにとって変わっていた。人間性回復のための壕にしたい」
与那国町長「一戦交える覚悟」を呼びかけ…南西諸島で進む自衛隊の配備
沖縄戦が始まる直前。新聞「沖縄新報」の見出しには、南西諸島の文字。社説は、敵愾心をあおった。
そして今、南西諸島には、自衛隊の配備が急速に進む。
与那国町長
「全国民がいつでも日本国の平和を脅かす国家に対しては一戦を交える覚悟がいま問われているのではないでしょうか」
与那国島では、2022年、アメリカとの共同訓練に絡み戦闘車が公道を走った。石垣島や宮古島と同じように、ミサイル部隊の配備が計画され、新たな土地の取得、そして有事の際に自衛隊などが使用することを前提とした空港滑走路の延長や港湾の整備計画が進む。
2024年5月17日、アメリカのエマニュエル駐日大使も訪問し、日米同盟をアピール。そして、政府は6月、台湾有事を念頭に、先島諸島の住民を九州各県と山口県へ避難させる計画を九州地方知事会に提示した。
80年前を体験した人々は、80年後の風景に何を見るのだろうか。
“平和なときに戦争は準備される” 裏付けた31年前の軍事演習
瀬名波榮喜さん
「沖縄戦前夜そのものだと思うんですよ。民間の飛行場を使えるようにするとか、あるいは民の土地を自由に使えるようにするとか、そういうやり方も戦争直前そのものですよ。戦争するときは、みんないいことを言うんですよ。東洋平和のためならばとなったらね、誰が反対しますか。もうノーと言えない状態に追い込んでしまうんですよ」
翁長安子さん
「始まったら絶対に止まりません。こっちが1発を撃ったらあっちから100発返る。これ本音なんですよ。だから絶対に戦争が始まったら、もう、収まらない」
與座章健さん
「バカげていて正気の沙汰と思えん。戦争の愚かさ、馬鹿さ加減というか、僕ら経験したからわかるんでしょうね。そうでなければわからないかね」
書家でもある儀間さんは、自らが記したメッセージを街頭で掲げる。
儀間昭男さん
「沖縄の方言でぴったりここに合うのは、こういう言葉だと思ってる。基地は抑止力のために造るという。沖縄の方言で『よくし(抑止)』は『ゆくし』と発音。これは『うそ』という意味」
沖縄国際大学の石原昌家名誉教授が最も印象深かったという証言者がいる。又吉栄長さん。1989年5月に聞き取った声だ。
又吉栄長さんの証言テープより
「昭和の初め、班長室に呼ばれいろいろな指示を受けておるとき、小さな本に目が留まりました。大きな字で『もし日米戦わば』と書かれてある本でした。日本の軍隊は米国とも戦争するくらいの強い軍隊だな、帝国軍人の一員として自分も偉くなったようないい気持ちになっておりました。それから13年後、日米戦争が始まったのです。13年前のあの小さな本が私の頭に浮かんできました。戦争はずっと以前に平和のときから計画されているものだなと感じました」
実は、沖縄戦の31年前。ある軍事演習が行われていた。
1914年1月の新聞が報じているのは、まるで沖縄戦を想定していたかのようなシナリオだ。仮想敵が首里の軍司令部を目指して進軍し、それを学生隊の力を借りて迎撃していた。
「平和なときに戦争は準備される」。それを裏付けたのが、沖縄戦だった。