科学によって生み出される兵器の開発目的の1つにあるのが「効率」です。
東京大空襲で使われた焼夷弾は、いかに短時間で街を燃やし尽くすか、入念に計算されたものでした。
【写真を見る】「効率」を求める兵器 短時間で東京を火の海に・・・考え尽くされた「焼夷弾」【科学が変えた戦争】
毒ガスを生んだ科学 アウシュビッツの虐殺でも
およそ100年前(1918年)、食糧危機から人類を救う研究でノーベル化学賞を受賞したフリッツ・ハーバー。そのハーバーの異名が…「化学兵器の父」。
第一次世界大戦で広く使われた新たな兵器が、白い煙…大量破壊兵器・毒ガスです。この毒ガス開発を主導した人物こそ、フリッツ・ハーバーだったのです。
そして毒ガス兵器は第二次世界大戦中、更なる被害を生みます。
アウシュビッツ博物館ガイド
「十分な食料や水がないことが頻繁にありました。これは死の門と呼ばれていました」
アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所。かつて、ユダヤ人の大量虐殺が行われた場所です。ナチス・ドイツによって虐殺されたユダヤ人は、およそ600万人。その内110万人がアウシュビッツで殺されました。
この大量虐殺を可能にしたものが残っています。毒ガス・ツィクロンB。わずか20分で人を死に至らしめる猛毒です。元々は殺虫剤だったツィクロンBを作ったのもハーバーだったのです。
アレク・ハーシュさん(95)は、14歳の時にアウシュビッツに送られました。収容所ではアレク・ハーシュという名前ではなく、番号で呼ばれていたといいます。
アレク・ハーシュさん(95)
「囚人番号はB7608です」
いまも、毒ガスの怖さが忘れられません。
アレク・ハーシュさん(95)
「毎日、人々が殺され、燃やされました。信じられない数で…男も、女も、子どももその様子を私は横目でみていました。生き地獄でした」
アウシュビッツで毒ガスはどう使われたのか。
実は、アウシュビッツという施設は多くの人を短時間で殺害できるよう考え抜かれ、設計されていたのです。
連行される多くのユダヤ人たち目と鼻の先には、ガス室が…。殺害は20分で行われ、遺体は、すぐ上の焼却炉に運ばれ燃やされたのです。
一度に最大2000人を殺害できるガス室が、4つあったといいます。
この方法にハーシュさんは…
アレク・ハーシュさん(95)
「酷い話です。でも何もできませんでした。従うしかなかったのです。普通の人たちが殺されました。ドイツ人が特定の集団を嫌いというだけで…信じがたい残酷さです」
焼夷弾を生んだ科学 “燃やし尽くす”東京大空襲
戦争が生み出した、人の命を奪う技術。それは…1945年3月10日の東京大空襲でも。
このとき使われたのが、当時の新兵器・焼夷弾でした。空中でバラバラになり家屋に着弾し、次々と火を吹き、東京の下町が炎に包まれました。
その様子を覚えている人がいます。
駒田健吾アナウンサー
「あの日の空襲というのはどうだったんですか」
二瓶治代さん(87)
「向こう側の空から、真っ赤に燃えた筒がクルクルクルクル。サーサーサーサー
まるで雨みたいに落ちていく」
二瓶治代さん(87)は、8歳の時、東京大空襲を経験。焼夷弾が降り注ぐ街を逃げ惑ったのです。
駒田アナウンサー
「辺りはどんな様子だったんですか?」
二瓶治代さん(87)
「火の川のようになっていました」
駒田アナウンサー
「この道路が?一面火の川のように…」
二瓶治代さん(87)
「それで火の粉が縦横無尽に真横から吹き付けてくる。風と一緒にゴーゴー唸るような感じでこの辺一帯、火で囲まれていた」
炎に焼かれた母と子…一晩で、10万人もの命が奪われました。
短時間で東京を燃やし尽くすため…このときアメリカ軍は、焼夷弾をどこに落とすか、緻密に研究していたのです。
空襲の研究を続ける、工藤洋三さん。アメリカで、ある資料を入手しました。
空襲・戦災を記録する会 事務局長 工藤洋三さん(74)
「これが東京の焼夷区画図」
空襲の1年半前、アメリカ軍が作った東京の地図。赤く塗られた部分・下町が、最も燃えやすい地域。ピンク色は、その次に燃えやすい地域です。焼夷弾をどこに落とせば、効率的か…細かく分析していたのです。
工藤洋三さん(74)
「(アメリカは)1940年の国勢調査のデータを持っていて、東京のどこの部分が人口多いか。日本の家屋は主に木造。焼夷弾を落とす時は全般に落とすのではなく、一番燃えやすいところを見つけてそこに落とす研究が非常に早い時期から始まっていた」
10万人を殺害 東京大空襲の“科学”とは
一方で、焼夷弾の効果を高めるための実験も…アメリカ西部・ユタ州のダグウェイ実験場です。
「この場所は新しい兵器、特に焼夷弾の効果を試すために作られました」
砂漠にある実験場に、当時作られた日本家屋。東京の下町にあった木造住宅をそっくり再現。畳やちゃぶ台など、家の中も忠実に作り上げたのです。すべては焼夷弾の効果を試すために…
「焼夷弾Ⅿ69に入っているのは、特殊加工されたゼリー状のガソリンです」
仕込まれていたのはゼリー状のガソリン。飛び散って燃え、水をかけても消えにくいのが特徴です。これを、再現した日本風木造住宅に投下。発火すると火の塊が壁や床にへばりつき燃やし尽くす仕組みです。
さらにこの時、考えられたのが1つ1つの焼夷弾を38本集め、大きな爆弾にするというもの。
空中で爆発するとたくさんの爆弾が、広い範囲にばらまかれます。東京大空襲で使われた焼夷弾は、「クラスター爆弾」の走りでもあったのです。
一面焼け野原となった東京の下町。二瓶さんは、焼夷弾の恐ろしさを今も覚えています。
二瓶治代さん(87)
「今まで騒がしかった街が何の音もしない。しーんと静まり返っていて動くものもない。皆、真っ黒な炭のようになって、焼き殺されていました。本当に焼き殺すための空襲だった」
そんなアメリカが開発した焼夷弾は、進化しその後の戦争でも。
ベトナム戦争のナパーム弾。湾岸戦争、イラク戦争、シリア内戦で使われたクラスター爆弾。そして今、ウクライナ侵攻でも…
79年前、そして現在、終わらない戦争とともに、人の命を奪う技術の開発は、今も続いているのです。
(TBSテレビ「つなぐ、つながるSP 科学が変えた戦争 1945→2024」8月11日放送より)