1945年の終戦から79年。太平洋戦争では、当時、画期的とされる技術を持ちながら、特攻兵器になるという運命をたどった潜水艇がありました。敵艦に体当たりするという任務を与えられた「海龍」。戦後、その生みの親が、科学技術のあり方について、言葉を残しています。
【写真を見る】「何が国民のためかを判別することが科学技術者にとって第一の問題」 潜水艇「海龍」生みの親が語った言葉【科学が変えた戦争】
最先端の技術を持ちながら…特攻兵器になった「海龍」
静岡の沖合、水深36メートルの海底で70年以上眠るのは、水中特攻兵器「海龍(かいりゅう)」です。
全長17メートル、魚雷2本を積んだ2人乗りの潜水艇。その先端部分には、600キロの爆薬が装てんされ、敵艦に体当たりします。
太平洋戦争の末期に始まった作戦、特攻。多くの若者たちが、尊い命を散らすなか、「海龍」も生まれたのです。「海龍」の元搭乗員は…
海龍の元搭乗員 浦了さん
「司令の話では『お前たちが乗る飛行機がもうない』と。『戦局が極まって、海軍ではこういう特攻兵器ができた、だから志願する者を募る』と」
当時、最先端の技術で造った秘密兵器。考案したのは、海軍の科学技術者である浅野卯一郎中佐でした。
浅野中佐
「潜航深度と操縦性能においては、世界一のものにしよう…」
この船の特徴は、両側についた「翼」。翼を備えた潜水艇は、世界初でした。
1978年、熱海で引き揚げられた「海龍」。わずか5秒で、水中に潜ることができたのです。開発した「翼」が可能にした、画期的な技術でした。
元々、海龍は通常の潜水艇だった
開発は、極秘に進められました。極秘に建造された「海龍」の存在を知っていた人がいます。
佐藤守良さんは当時、海軍省の特兵部で、「海龍」に関する極秘文書を目にしていました。
海軍省「特兵部」で勤務 佐藤守良さん
「何て言ったらいいのかな…悲壮な気持ちです。誰だって死にたくないですからね。それなのに死んでいくというのは、鬼も泣くような気持ちになりました」
防衛研究所には、海龍について数少ない資料が残されています。
戦後、アメリカ側に提出された図面の先端部には『爆発物』の文字が。ただ、元の図面には、「燃料タンク」としか記されていません。元々、通常の潜水艇だった海龍は、戦況の悪化で特攻兵器に作り替えられていたのです。
広島県呉市の「大和ミュージアム」。ここに「海龍」が展示されています。
終戦の4か月前から、224隻が造られた「海龍」は結局、出撃命令が出ることなく、終戦を迎えました。
「海龍」の生みの親・浅野中佐は戦後、こう振り返っています。
「私のような一技術者が『國のため』と思って捨身になって奮闘した結果がこれであった。何が國のためであり、何が國民のためになるかを判別することが科学技術者にとっても第一の問題である」
(TBSテレビ「つなぐ、つながるSP 科学が変えた戦争 1945→2024」8月11日放送より)