戦争の記憶を未来につなぐ「NO WAR プロジェクト つなぐ、つながる」です。先の大戦が終わるまで中国・上海には10万人もの日本人が暮らす「日本人街」がありました。そこでは現地の中国人と友好的な関係を築いていたそうです。その日本人街が、今の日中関係に問いかけるものを取材しました。
金曜の夜の上海市内の劇場。
記者
「ライブで盛り上がる劇場ですが、元々は用途の異なる建物でした」
客
「(Q.何の施設だったか知っている?)全然知らないです」
その答えは、「西本願寺別院」。日本のお寺だったのです。
上海の「虹口」と呼ばれる一帯は通称“日本租界”とも言われる「日本人街」でした。1870年から終戦まで、第二の故郷にしようと、起業する日本人や赴任した駐在員とその家族が住むようになり、ピーク時は10万人規模に。
神社に寺院、そして日本人学校は16校も。現在はアパートになっているという建物は、面影はありませんが高級料亭でした。
日本は1937年8月に起きた「第二次上海事変」を経て、上海を占領下に置きますが、中国の歴史学者・陳祖恩氏によると、占領以前の日本人街は中国人と友好的だったといいます。
歴史学者 陳祖恩氏
「(日本の工場は)中国人労働者のための住宅を建設し、クラブ・病院・保育園を備え、運動会を開きました。これは後の中国の工場のスタイルにもなりました」
上海に10年以上暮らす福澤真理さん。福澤さんの祖父も戦中、上海で暮らし、終戦後は虹口で日本への引き揚げ船を待ち続けました。
この日、初めて虹口を訪ねます。
福澤真理さん
「(祖父が上海にいた頃の)住所を教えてくださった方がいらっしゃったので、よし、じゃあ行ってみようと」
当時の住所を頼りに祖父の暮らした共同住宅を探していると、手助けしてくれたのは地元の中国人男性。
「連れていってあげようか?」
「いいんですか、ありがとう」
共同住宅のあった住所を訪ねると、残念ながら建物は残っていませんでしたが、男性は親切にもこんなことを教えてくれました。
「右を見て!右!」
同じような建物があると、別の共同住宅を案内してくれたのです。
福澤真理さん
「姿がわかって、こんな感じだとわかってうれしい。上海の友達とかにも『こうだったよ』と共有することで、次の世代の交流として歴史を大事に記録して守っていって、友好関係をずっと続けていけたらいい」
上海に点在する日本人街の痕跡。
歴史学者の陳氏は「占領前は市民同士の交流があったことや、影響を受けた側面も知っておくべきだ」と指摘します。
陳祖恩氏
「もちろん日本の中国侵略を忘れてはなりません。しかし、これを思い出すだけでは十分ではありません。当時の歴史を正確に理解しないと、これからの中日関係、交流をどのような方針にすべきか考えるのは難しいでしょう」
戦後から現在に至るまで様々な難しさを抱えてきた日本と中国の関係。自由な言論活動が難しい中国だけに、その言葉の重みを感じずにはいられません。