自分よりも未熟な者から教えられることもあるということを「負うた子に教えられて浅瀬を渡る」と表現します。
しかし、そもそも「負うた子に教えられて浅瀬を渡る」は何を意味するのでしょうか?
今回は「負うた子に教えられて浅瀬を渡る」がどのような意味なのかを解説します。
「負うた子に教えられて浅瀬を渡る」とは
ここでは「負うた子に教えられて浅瀬を渡る」の意味を解説します。
「負うた子に教えられて浅瀬を渡る」の意味
「負うた子に教えられて浅瀬を渡る」は、自分より未熟な者から教えられることもあるということの例えです。
年下や目下の人から学ぶことを意味する言葉となります。
もともとは親子についての言葉ですが、現代では親子以外の関係でも使用される言葉となっています。
「負うた子」とはどんな状況にある子供?その成り立ち
「負うた子に教えられて浅瀬を渡る」の「負うた子」は「傷を負った子供」や「何かに負けた子供」ではなく「背負った子供」という意味となります。
もともと「負うた子に教えられて浅瀬を渡る」は背負った子供に浅瀬を教えられて川を渡っている状況を指します。
本来、子供は大人よりも背が低いために川を渡ることができません。
しかし、大人に背負われた子供は高い位置から川を見下ろすことができるため、どこが浅瀬なのかがよく見えます。
その子供に教わることで大人も安全に浅瀬を渡ることができるということから「負うた子に教えられて浅瀬を渡る」が成り立っています。
転じて、自分(大人)よりも未熟な者(子供)から教えられることもあるという例えとして使用されるようになりました。
「負うた子に教えられて浅瀬を渡る」の用い方
ここからは「負うた子に教えられて浅瀬を渡る」の使い方を解説します。
説教じみた用い方はしない
「負うた子に教えられて浅瀬を渡る」は自分よりも未熟な者から教えられることもあるという意味があるため、やや上から目線のような言葉に感じます。
しかし、実際にはあまり説教じみた使い方はしません。
むしろ、大人でも子供から教えられることはあるという「感心」にも似た言葉として使用するのが一般的です。
もしくは教える者と教わる者の立場が逆転することの表現としても使用され、教訓じみた意味ではなく穏やかでほほえましい表現としても使用されます。
要は説教じみた用い方ではなく「未熟な者からも学ぶことはある」という戒めのような意味合いがあると覚えておきましょう。
「負うた子に教えられる」と略されることもある
「負うた子に教えられて浅瀬を渡る」は「負うた子に教えられる」と略して使用されることもあります。
この場合も意味は変わりません。
「負うた子に教えられる」も年下の人や目下の人から教わることはあるという意味で使用されます。
こちらも「負うた子に教えられて浅瀬を渡る」と同様に教わる相手を咎めているわけではないのでその点は注意しましょう。
「負うた子に教えられて浅瀬を渡る」の類義語
ここからは「負うた子に教えられて浅瀬を渡る」の類義語を紹介します。
八歳の翁百歳の童
「八歳の翁百歳の童」は、人間の賢さは年齢には関係がないものだという意味の言葉です。
この言葉は百歳の老人でありながら子供のような人もいれば、七歳の子供でありながらすでに老人のような人もいることを表現したものです。
つまり、人間の賢さに年齢は関係ないことを意味するわけです。
その点が「負うた子に教えられて浅瀬を渡る」と似ています。
「負うた子に教えられて浅瀬を渡る」も大人が子供から教わるという逆転現象が起きているため、両者の意味はほぼ同じと言えるでしょう。
愚者も一得
「愚者も一得」は愚かな者でもたまには採るべきいい考え方をするという意味の言葉です。
これは古代中国の書物『史記-淮陰侯伝』にある「智者も千慮に必ず一失あり、愚者も千慮に必ず一得あり」という言葉から来ています。
その意味は「どれほどの賢者でもたくさんの考えの中には失策があり、どれほどの愚者でもたくさんの考えの中には得策がある」となります。
つまり、どんな愚かな者でも名案を生むことがあるという意味となるわけです。
その点が「負うた子に教えられて浅瀬を渡る」と通ずるものがあります。
まとめ
「負うた子に教えられて浅瀬を渡る」は未熟な者からでも教わることはあるということを意味する言葉です。
この言葉自体は「背負った子供に川の浅瀬を教わって渡る」という様子を意味しています。
そのため、決して悪い意味を含む言葉ではありません。
むしろ良い意味で使用される言葉なので、ぜひ日常生活でも使用してみてください。
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