あす、ノーベル平和賞授賞式が行われるのを前に、「日本被団協」の結成当時を知る97歳の被爆者におはなしを聞きました。
97歳の被爆者、阿部静子さん。ノーベル平和賞を受賞する日本被団協の結成当時を語ることができる、数少ない生存者です。
被爆者 阿部静子さん
「びっくりするやら、うれしいやら、ちょっとうれし涙が出ましたが、考えてみたら喜んでばかりいられない」
阿部さんは結婚して間もない18歳のとき、広島で被爆しました。原爆の熱線で、顔や右半身に大やけどを負いました。戦後も、手や顔はケロイドでひきつり、差別にも苦しみました。
被爆者 阿部静子さん
「近所の心ない青年たちが『赤鬼』『赤鬼』とはやし立てる。とても悲しかった。何度も死にたいと思いました」
当時、広島の被爆者は、原爆の放射線による障害や差別、貧困に苦しみながらひっそりと生きていました。流れが変わったのは、被爆から10年後の1955年。アメリカの水爆実験で「第五福竜丸」が被ばくしたことをきっかけに、第1回「原水爆禁止世界大会」が開かれました。被爆者の訴えが初めて全国、そして世界に向けて発信された会議には、阿部さんも出席していました。
長崎で被爆 山口みさ子さん(1955年)
「私たちが今死んでも、原爆という恐ろしいことを世界中に誰が知らせてくれるのでしょうか」
阿部さんは、声を上げ始めた被爆者たちとともに、被爆者の援護や原水爆禁止を求めて国会に請願をしました。
被爆者 阿部静子さん
「お金はないし、医者へもかかれず、10年間苦しんだ挙げ句、陳情に行った」
そこで、後に総理大臣となる広島選出の池田勇人議員からこう言われたといいます。
「日本はアメリカに弱いからね。今度いらっしゃるときは、組織を作っていらっしゃい」
「二度と原爆を許すな」。被爆者の願いを集め、日本被団協が誕生しました。
被爆体験を語る 阿部静子さん(1987年)
「顔の色は真っ赤でした」
阿部さんは、積極的に証言活動もしてきました。
被爆者 阿部静子さん
「この人たちが私のような醜い姿にならないように、どうぞ親からいただいた体をそのままで年を重ねていただきたい」
授賞式はこの部屋で静かに見守るつもりです。
被爆者 阿部静子さん
「被爆体験が日本・世界の方に届いていない。それは被爆者の責任」