史上最大の干拓でコメを作ろうとしたら…減反に翻弄された八郎潟(1977年)【TBSアーカイブ秘録】

琵琶湖の次に大きな湖といえば、かつて「八郎潟(はちろうがた)」でした。そこを陸地に変え近代的農業でコメの増産を目指す。そういう発想からスタートした八郎潟の大干拓事業は、やがて数奇な運命をたどりました。(アーカイブマネジメント部 疋田 智)
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八郎潟が「豊かな湖」だった頃
秋田県西部、男鹿半島の付け根に広がっていた巨大な湖。それが、かつて日本で2番目に大きな湖とされた八郎潟です。
八郎潟はもともと、周囲100kmを超える汽水湖で、淡水と海水が混じることで豊かな生態系を育んでいました。伝説上の人物「八郎太郎」がこの湖に龍神として住みついたという神話が「八郎潟」の語源。地元の信仰とも密接に結びついていたのです。
大干拓でコメを作ろう
ところが戦後、日本は深刻な食糧不足に直面し、国は農地の拡大を図るため、全国各地で干拓事業を推進します。そのなかで最大級の規模を誇ったのが、この八郎潟干拓事業でした。
昭和32年(1957年)、国営事業として干拓が始まり、オランダの干拓技術を手本に、巨大なポンプ場や防潮水門、排水路が整備されていきます。一方、干拓によって多くの漁師が生業を失い、湖に生息していた魚や鳥たちの姿も徐々に減っていったのも事実です。
一大国家事業の「完成」
総工費は約850億円、ついに昭和52年(1977年)日本最大級の干拓地「大潟村」が完成しました。事業スタートから約20年の歳月が過ぎていました。
干拓により湖の約8割が陸地に姿を変え、約17,000ヘクタールの農地が誕生したのです。かつての湖底は、機械化農業を前提としたモデル農地に生まれ変わり、全国から理想の農業を目指す人々が集まったと言われています。
ところが「減反」の時代がやってきた
ところが、その完成からわずか4年後の1981年、日本はコメの過剰生産に直面します。政府は米の生産を抑える「減反政策」を本格化させました。
減反政策とは、米の需要減少に対応し、生産量を意図的に減らすために農家に作付け制限を求め、代わりに補助金を支給する政策です。その背景には、食の多様化、いわゆるコメ離れがあったと言われています。
コメ増産のための大規模農業を前提に設計された八郎潟にとっては、いわば政策の急転換です。地元では減反に対する反発も強く、コメの流通は混乱しました。
減反の弊害、各地で
また、減反政策は農家の経営安定に寄与する一方で、「補助金依存」の構造を強めた側面もあります。農業が生産よりも制度を活用する方向に傾いたことで、地域農業の持続可能性が損なわれる結果となったのです。
そして今。
2018年には国による生産調整の義務づけが廃止され、現在は「飼料米」や「麦・大豆」への転作、スマート農業の導入など、新たな方向が模索されています。
令和の米不足のなか、そろそろ「減反」に引きずられたポリシー自体を考え直すときがきているのは明らかです。