新井将敬議員の死で交差した“2人の法律家”の宿命 「ゼネコン汚職事件」でかつての師弟が対峙するまでの軌跡【平成事件史の舞台裏(30)】

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2025-12-20 07:00
新井将敬議員の死で交差した“2人の法律家”の宿命 「ゼネコン汚職事件」でかつての師弟が対峙するまでの軌跡【平成事件史の舞台裏(30)】

「ーー衆院議員の新井将敬が自殺した」

【写真を見る】筆者が担当していた番組に出演する猪狩俊郎弁護士(TBSテレビ)

耳を疑う一報だった。検事人生25年、数々の政界事件を指揮してきた東京地検特捜部長の熊﨑勝彦ですら言葉を失った。
確認のため熊﨑が電話をかけたのは、かつて検察庁で寝食をともにした後輩で、今は新井の弁護人を務める猪狩俊郎弁護士(33期)だった。

受話器越しに返ってきた猪狩の声は震えていた。

「あなたが追い詰めたから、こうなったんじゃないですか」

半年前まで「若手改革派」として注目されていた新井将敬衆院議員の死。事件は「被疑者死亡」で終結し、特捜部が一年余り積み上げてきた政界捜査は、水泡に帰した。

新井将敬の死から遡ること5年。特捜部が建設業界に初めて本格的にメスを入れた「ゼネコン汚職事件」でも、熊﨑と猪狩は立場を分けて、相まみえた。
検察庁で同じ釜の飯を食った師弟は「ゼネコン事件」「新井将敬事件」という平成の歴史的事件を舞台に、捜査の指揮を執る特捜幹部と、事件のキーマンを守る弁護士として対峙したのである。

当時の取材記録や関係者への取材をもとに、二人の法律家が歩んだ知られざる宿命の軌跡を描く。

東京地検特捜部長からの一本の電話

その日の東京地検特捜部は、嵐の前の静けさに包まれていた。

1998年2月19日午後。特捜部長の熊﨑勝彦(24期)は10階の部長室で、筆者ら数人の司法記者と共に、その瞬間を固唾をのんで待っていた。テレビ各局は昼ニュースの段階から「新井衆院議員逮捕へ」と繰り返し、報じていた。

まもなく新井将敬衆院議員の逮捕が国会で可決され、夕刻には特捜部の取調室に本人が姿を見せる・・・。国会の予定では、逮捕許諾の手続きは午後6時には完了し、衆議院本会議で可決された後、午後7時頃には新井が東京地検に出頭することになっていた。

特捜部は9階の部屋に「取調室」を準備していた。新井の取り調べは、参考人聴取に続いて粂原研二(32期)があたることになっていた。

だが、歴史の歯車は音もなく狂い始める。国会の可決と本人の出頭を残すのみとなったそのとき、部長室に一本の衝撃的な連絡が入った。

「――新井将敬が自殺した」

熊﨑は、突然の一報に言葉を失う。すぐさま確認のため新井の弁護士、猪狩俊郎(33期)に電話を掛けた。

そのとき猪狩は、東京・千代田区麹町の一番町総合法律事務所から「ホテルパシフィックメリディアン東京」に向かうタクシーの車内。隼町交差点近くの最高裁裏門通りにさしかかったところで携帯が鳴った。

熊崎の声はあわてて、興奮した口調だった。

「今、情報が入ったのだが、新井将敬が自殺したんだって・・・亡くなった場所はどこか教えてくれないか」

猪狩の口から出たのは怒りの言葉だった。

「特捜部長のあなたが功名心で、でたらめな証拠を作って、新井を追い詰めたからこうなったんじゃないですか、責任を感じないんですか」(猪狩)

「そうじゃない。私は自分の職責から捜査を行なってきたわけで、確かな証拠関係が揃ったから手続きに進んだだけでしょう」(熊崎)

猪狩は新井の自殺という結末に納得することができず、無性に腹が立っていた。怒りを抑えきれず、旧知の仲の熊﨑からの電話を思わず切った。

猪狩は、自著でこう記している。

「新井が自ら命を絶ったという衝撃。そして、その一方で、特捜部と全面対決しようと誓い合い、半年以上ともに戦ってきた新井に裏切られたーーそんな複雑な思いが交錯していた」

野村証券や第一勧銀による総会屋・小池隆一への利益供与事件は、やがて日興証券による新井将敬衆院議員への利益供与へと波及した。約一年に及んだ捜査は、特捜部の伝統的な“着地点”である国会議員、すなわちバッジの摘発で収束に向かうかに見えた。

しかし、その丹念に積み上げられた捜査は「被疑者死亡」によって、あまりに突然、崩れ去ったのである。

日本を震撼させた「藤沢市母娘ら5人殺害事件」容疑者の取り調べ

実は、猪狩弁護士と熊﨑特捜部長には、古くからの深い縁があった。猪狩が検察庁に在職していた頃から、両者はいわば親分子分のような間柄だった。

猪狩俊郎──1949年、福島県阿武隈山中の大越町(現・田村市)の農村に生まれた。
実家は薪の卸売やLPガス販売を営む自営業。福島県立安積高校を経て慶應義塾大学法学部に進学。卒業後は鎌倉市で学習塾のアルバイトをしながら司法試験に挑み、五度目の受験となった1978年、29歳で合格した。

1980年に検事任官。横浜、山口、仙台、青森と各地の地検で捜査・公判を担当し、約10年間の検察官生活を送った。

熊﨑と出会ったのは、猪狩が初任地の横浜地検に配属された時である。猪狩にとって熊﨑は、検察官人生の「恩師」ともいえる存在だった。

熊﨑勝彦──1942年、岐阜県萩原町(現・下呂市)の出身。大学受験に一度失敗して就職したが、再挑戦して明治大学に進学。司法試験合格は卒業から4年後の1969年、27歳の時だった。

1972年に検事となり、1980年8月から約2年半、横浜地検に在籍。この間に、日本を震撼させた「藤沢市母娘ら5人殺害事件」を担当し、名前を一躍知られることになる。

事件の概要はこうだ。
1982年6月14日、神奈川県警はストーカー行為の末に女子高生ら家族3人を殺害した藤間静波(当時21歳)を、まず脅迫容疑で逮捕し横浜地検に送致した。いわゆる「別件逮捕」である。警察の厳しい追及にも藤間は「おれには関係ない。話すことはない」と否認を貫いていた。

殺人容疑での捜査が難航するなか、検事10年目の熊﨑が取り調べに入った。藤間は、神奈川県警には心を閉ざし続けた一方で、熊﨑には少しずつ本音を漏らすようになった。

熊﨑はこのときの話を、筆者に語ってくれたことがある。

「生い立ちを調べると、彼は人から愛情を受けた経験がほとんどなかった。まずは過去を丁寧に聞くことから始めた。妹だけを可愛がる母親に折檻され、小学校では“嫌いなやつ”とレッテルを貼られ、中学では深刻ないじめを受け、やがて非行に走り、少年院も経験していた。真実を語ること、正直であることが人間にとってどれほど大切かを、少しずつ伝えていった。数日たって、『君の将来を考えているのは目の前にいるおれだけだ。おれを親、兄貴だと思って、一度真人間に立ち返ってみないか』と語りかけた」

そして逮捕から10日後の6月24日、藤間は熊﨑にこう告白した。

「今までうそをついていて申し訳ございませんでした。家族3人をあやめたのは俺です。本当に申し訳ありません」

藤間はついに犯行の全容を自供した。捜査本部は藤沢市で母娘3人を殺害した「殺人容疑」で再逮捕。さらに、口封じのため仲間2人も殺害していたことを自白し、計5人の殺害が明らかになった。

当時はまだ「ストーカー規制法」が存在せず、執拗なつきまといや無言電話がついには殺人事件へと発展したという現実は、日本中に衝撃と恐怖を与えた。

被害者家族は事件前、何度も警察に相談していた。しかし「民事不介入」を理由に、十分な捜査も保護措置もとられなかった。また、藤間は逮捕後、報道カメラに向かって不敵な笑みを浮かべ、ピースサインを見せるなど、その態度は強い社会的反発を呼び起こした。

こうした重い事件に向き合っていた熊﨑の胸には、当時の上司・竹村照雄横浜地検検事正(3期)から掛けられた言葉が、深く刻まれているという。

「竹村さんに、『熊﨑くんは、人を谷底へ突き落とすような追及をしても、そのまま放っておく人じゃない。最後には、必ずすくい上げる男だね』と言われたことを覚えている」

法律の執行者でありながら、人としての救いを忘れない――。
熊﨑の一貫した姿勢は、その後のキャリアを通じても決して変わることはなかった。

猪狩が先輩検事・熊﨑から学んだこと

一方、新任検事だった猪狩にとって、横浜地検での最大の難関は、刑事部長・若林安則(11期)から「決裁」をもらうことだった。「決裁」とは、担当事件の起訴・不起訴の判断や、公判に提出する証拠資料などについて最終的な承認を得る手続きである。

猪狩は、この「決裁」の受け方を熊﨑から学んだ。

「クマさんは刑事部の先輩検事で、風紀係として我々の部屋長でもあった。刑事部の検事は、部長の若林さんから決済をもらうために、列をつくって決済の順番待ちをした。若林はとにかく検事を容赦なく怒鳴りつけるのが習癖だった。いい大人が衆目の中で罵倒された」
「だが、この若林に怒鳴られなかった例外の検事がいた。それがクマさんだった。クマさんは部長室に入る前、ぶつぶつと記録を読み返し、“よし!”と気合を入れてから入室する。報告は立て板に水のように流暢で、身振り手振りを交えながら論理を組み立てていく。そばで聞いている私にも事案の内容がよく理解できた」

さらにこう続ける。

「クマさんの用意周到な姿勢は大いに勉強になった。以来、私も簡潔でわかりやすい事案説明を心がけ、準備を重ねて決裁に臨むようになった。すると、若林に意地悪を言われることも減り、新任でも自白が取れるようになり、結構やれるじゃないかと日ごとに妙な自信がついていった」(『激突』猪狩俊郎)

熊﨑は若林からの信頼も厚かったことから、先輩検事を差し置いて、重要な贈収賄事件の身柄処理を任されることも多かったという。

あるとき、ゼネコンの社員が否認を続け、自白しないことから、担当が熊﨑に交代した。夕方、熊﨑が社員を呼び出して取り調べをすると、あっさり自白したことがあった。熊﨑は一切、大声を出さずに諭していた。猪狩にはその取り調べが「神業」に見えたという。

横浜地検時代の猪狩は、そんな熊﨑の背中を追い、取り調べから立会事務官への気配りに至るまで、仕事を吸収していった。

「クマさんはよく牛乳を飲んでいた。胃潰瘍だったからだ。夕方になるとエンジンがかかる。ゆっくり起き上がって、警察署に取り調べに向かうか、大部屋で事情聴取を始めるのがルーティーン。夜は遅くなるので、立会事務官は大変だったと思うが、温かくて気遣いがあった。『飲み会やカラオケも、その人の考え方を理解するために大事なんや』と言い、気さくで飾らないところが、みんなに慕われていた」(猪狩)

藤間静波事件の翌年、1983年3月。熊﨑は希望していた東京地検特捜部に異動し、のちに“黄金時代”を築くことになる特捜検察の世界へ、一歩を踏み出した。

ちなみに藤間事件の裁判は、裁判史に残る異例の展開をたどった。

1988年、横浜地裁で「死刑判決」を受けた藤間は控訴したものの、その後「どうせ助からないから控訴をやめる」と自ら控訴を取り下げた。通常であれば、その時点で審理は終了し、死刑が確定するはずだった。

しかし1995年6月、最高裁はこの控訴取り下げについて「判決を受けたショックなどによる精神障害が原因で、真意に基づく意思表示とは認め難い」と判断。東京高裁での公判再開を命じ、異例の“控訴取り下げ無効”の決定を下した。

最終的には2004年、最高裁であらためて「死刑判決」が確定する。そして2007年、鳩山邦夫法務大臣の執行命令により、藤間は収監先の東京拘置所で刑を執行された。享年47。このとき法務省は、死刑執行者の氏名を初めて公表し、大きな注目を集めた。

鳩山法務大臣は公表の理由について「死刑という非常に重い刑罰が、法に基づき適正に執行されているかどうかを、被害者や国民が知り理解する必要がある」と説明した。

そのため、すでに検察庁を退官し、プロ野球顧問に転じていた熊﨑は、藤間の死刑執行の知らせをテレビのニュースを通じて知ることができた。

「ゼネコン汚職事件」で大物知事や市長を相次いで摘発

もともと「十年働いたら弁護士になる」と心に決めていた猪狩は、1990年に検察庁を退官。49歳で弁護士へと転じた。そして、時代がバブル崩壊へと傾きつつあった1993年、二人は再び運命の交差点に立つことになる。

熊﨑は東京地検特捜部の副部長として、自民党の実力者であった金丸信・元副総理による巨額脱税事件を摘発した。“政界のドン”と称された金丸元副総理の逮捕は、日本中に大きな衝撃を与えた。
さらに、大手ゼネコンに対する一斉家宅捜索では、後の展開を決定づける数々の“宝の山”が押収される。「金丸脱税事件」を導火線として、捜査は一気に「ゼネコン汚職事件」へと拡大していったのである。

実は、「ゼネコン汚職事件捜査」の裏側には、知られざる捜査秘話があった。突破口となったのは、大手建設会社「ハザマ」への家宅捜索で押収された、たった一枚の資料だった。

特捜部の谷川恒太(32期)が、その中から「仙台市長 3,000万円 本田」と記されたメモを見つけ出したのである。

本田とは、「ハザマ」会長の本田茂を指す。このメモは、同社から仙台市長へ裏金が流れたことを示す有力な物証だった。しかし、肝心の「ハザマ」幹部は頑として口を割らず、捜査は難航を極めていた。

当時を、熊﨑はこう振り返る。

「物証はそろっているのに、とにかくハザマ側が自供しない。しびれを切らした私は、キャップのヤマシュウ(山本修三検事)にこう言い放った。『やれないなら、それでいい。全部やめちまえ。あとは自分の責任で調べろ』」
「そう言い残して庁舎を出た直後だった。ポケベルが鳴り、ヤマシュウから緊急の連絡が入った。『大変なことがわかりました。ハザマだけじゃありません。清水、西松、三井からも金が出ています』ーー“これは、とんでもない事態になる”。あのときの衝撃は、今でも鮮明に覚えている」

このとき、山本修三が「ハザマ」社長・加賀美彰から引き出した「自白」こそが、事件の核心だった。

「カネは仙台市長の石井宛てだが、やっていたのは、うちの会社だけじゃない」

衝撃的な供述だった。「ハザマ」だけでなく、「清水建設」「西松建設」「三井建設」の計4社が、総額1億円もの裏金を用意し、仙台市長に渡していたことが明らかになったのである。つまり、ゼネコン各社が「ジョイント」を組み、組織的に仙台市長へワイロを提供していたのだ。

元特捜幹部は、当時のゼネコンの手口をこう証言する。

「東京・赤坂の日商岩井ビル12階に入っていたレストランの奥の部屋に、ゼネコン4社が集まった。そこで総額1億円をトランクのようなものに詰め、それを仲介役である仙台市長の娘婿に丸ごと託した。『これを市長に渡してください』と手渡しで頼み、娘婿を通じて石井市長本人に届けられた」

特捜部が当初把握していたのは、「ハザマ」から市長へ渡った「3,000万円」にすぎなかった。それが、山本による取り調べを通じて、ゼネコン4社が“ジョイントを組んで総額1億円のワイロ”を渡していたことが発覚したのである。

これは、当事者以外には知りえない「秘密の暴露」だった。そして、事件の構図を一気に浮かび上がらせる、決定的な証拠となった。

なぜあえて選挙前に強制捜査に踏み切ったのか・・・

実は、強制捜査に踏み切るにあたって、特捜部には大きな懸念があった。

7月には衆議院議員総選挙が控えていた。「リクルート事件」から「金丸脱税事件」へと、政治とカネを巡る不信が頂点に達しつつあり、自民党の55年体制が維持されるのか、あるいは政権交代が起きるのかが最大の争点となっていた。

特捜部は、政治家案件の強制捜査については「国会審議への影響」や「選挙妨害」といった批判を避けるため、政治日程を慎重に見極めて着手の時期を決める――それが原則だった。

さらにもう一つ、組織の事情もあった。7月1日付で特捜部長が交代し、「金丸脱税事件」などを手がけた五十嵐紀男(18期)から、宗像紀夫(20期)にバトンが渡る予定だったのである。そのため「新体制に移行してから動けばよいのではないか」という声も出ていた。

しかし、今回は事情が違っていた。

「衆議院選挙の前に、政治家の絡む大型事件を仕掛けるべきかという慎重論は、検察首脳にもあった。だが選挙まで待てば情報が相手に漏れて、証拠隠滅、被疑者の自殺の危険すらある。早く動かなければ、事件自体がつぶれる可能性があった」

ーー熊﨑は、当時の判断をそう振り返る。

そして1993年6月29日。特捜部はついに強制捜査に踏み切った。
政令指定都市・仙台市の市長、石井亨を、ゼネコンから総額1億円を受領した収賄容疑で逮捕したのである。

この着手日が6月29日に設定されたのは、偶然ではない。この日は、ゼネコン各社の役員がほぼ確実に顔をそろえる「株主総会」の開催日だった。

熊﨑は、その狙いをこう明かす。

「株主総会であれば、贈賄側であるゼネコンの役員が全員そろう。確実に身柄を押さえることができる。ただし、総会前に動けば混乱は避けられない。そこで、総会後、取締役会が終わった直後を狙った」

もちろん捜査は、そこで終わらなかった。
特捜部は7月23日、国会議員も務めた大物の茨城県知事・竹内藤男を、「ハザマ」から1,000万円を受領した収賄容疑で逮捕。さらに夏休みが明けた9月20日、竹内に1,000万円を渡したとして、日本建設業団体連合会会長というポストにある建設業界の重鎮である「清水建設」会長・吉野照三を贈賄容疑で逮捕した。

熊﨑は、各ゼネコンからワイロを受け取った仙台市長、茨城県知事、宮城県知事ら、錚々たる大物首長やゼネコンのトップを次々と立件していく。こうして東京地検特捜部は、“最強の捜査機関”との評価を、あらためて世に知らしめることになった。

「ゼネコン汚職事件」で政治家の弁護人となる

一方の猪狩は、収賄側のキーマン──“茨城のドン”と呼ばれた茨城県知事・竹内藤男の弁護人に就任する。

竹内知事は「清水建設」「鹿島」「ハザマ」「飛島建設」のゼネコン4社から計9500万円のワイロを受け取ったとして逮捕、起訴された。竹内は東大卒、建設省のキャリア官僚を経て参院議員、さらに茨城県知事を5期18年務めた大物だった。

猪狩は皮肉にも、横浜地検時代に師と仰いだ熊﨑率いる特捜部と、真正面から対峙することになったのだ。

弁護依頼のきっかけは、竹内が雇っていた前任の弁護人からメディア、記者への「情報漏洩」だった。特捜部の大鶴基成(32期)による取り調べ内容が「弁護人からマスコミに漏れている」として、検察側が激怒していたのだ。

板挟みに陥った竹内は前任弁護人を解任し、その後任として指名されたのが、猪狩だった。始まりは、熊﨑の下でゼネコン汚職捜査のキャップを務める山本修三(28期)から猪狩にかかってきた一本の電話だった。

「竹内が弁護士を代えたがっているんです。可能であれば、面会に行っていただけませんか。東京拘置所の手配はこちらでします。接見時間も十分に取れるよう計らいます」

突然の申し出に、猪狩は瞬時に“匂い”を感じ取った。

「これほどの重大事件で、有名なヤメ検弁護士がついているのに、なぜ竹内が弁護士を解任するというのか。私も元検事、検察の手口は骨身にしみている。どう考えても、検察の差し金だろう」

そう直感しながらも、猪狩は最終的に依頼を引き受ける決断をする。

「竹内知事の弁護を引き受けたことに、功名心がまったくなかったとは言えない。だが、それ以上に──苛烈な取調べにさらされ、検察幹部と弁護団の軋轢の中で孤立していく竹内を、どうしても見捨てられなかった」
「大鶴検事のペースに絡め取られ、虚偽の自白に追い込まれているのに、当時の弁護団では食い止められない。無名の私でも、せめて心の支えになれるのではないか。無実を立証できる保証はなくとも、竹内と一心同体で闘う覚悟を決めた」(「激突」猪狩俊郎)

こうして、横浜地検以来の師弟は、政界とゼネコンの癒着をめぐる大型事件を舞台に、“特捜部長と弁護人”として相まみえることになる。

茨城県知事が東京地検特捜部に握られていた“弱み”

茨城県知事・竹内藤男の弁護人を務める猪狩は、公判が始まると、法廷で明確にこう主張した。

「竹内が、起訴事実に記載されたその日時、その場所において、そのような趣旨で、ハザマおよび清水建設の幹部から、当該金額のワイロを受け取った事実はありません」

起訴事実を、真正面から否認したのである。

当時、司法記者としてゼネコン汚職事件の一連の裁判をすべて傍聴していた筆者は、ある夜、銀座の飲み屋で猪狩に率直な疑問をぶつけた。

「竹内知事は、隠し持っていた約7億円の現金や割引債を押収されています。不正蓄財であることは動かぬ事実です。それでも、個々のワイロの受領を否定できるのでしょうか」

それに対する猪狩の答えは、意外なものだった。

「竹内が隠していた約7億円の不正蓄財の大半は、おそらくゼネコンからのカネだろう。むしろ、そこが重要なんだ。カネを受け取ることが常態化し、感覚が麻痺していた竹内にとって、『いつ、どこで、誰から、いくら、どんな趣旨で』受け取ったのかを、いちいち正確に覚えているはずがない」

つまり猪狩は、竹内の捜査段階における供述調書は、曖昧で不確かな記憶の上に、特捜部の誘導が加わって作成されたものであり、個別の授受を特定する証拠にはなり得ないと見ていたのである。

その背景について、猪狩は静かにこう語った。

「竹内が取り調べに素直に応じたのには理由がある。複数の愛人に金を使っていたという“弱み”を、特捜部に握られていたんだよ」

さらに、こう続けた。

「弱みにつけ込まれ、調書に署名・押印せざるを得ない状況に追い込まれていたわけだ。特捜部の内部では、竹内のことを“何でもしゃべる自動販売機”と呼んでいたようだ」
「たしかに、起訴事実の前後でカネを受け取っていたこと自体は否定できない。だが、18年もの間、権力者として君臨してきた知事にとって、『政治献金』や『金銭授受』は日常化していた。受け取った日付や場所、相手を逐一覚えているはずがない」

要するに猪狩は、竹内がゼネコン4社から受け取ったとされる総額9,500万円について、その具体的な「受領日時・場所・相手・趣旨」を特定すること自体が、現実には不可能だと捉えていた。

だからこそ、特捜部が作成した竹内知事の「自白調書」には、日時や金額、場所などに食い違いや矛盾が生じている。猪狩はそこに、「検察が竹内の供述に引きずられ、誤った起訴に踏み込んだ痕跡」があると、確信していたのである。

長期化した「ゼネコン汚職裁判」の結末

初公判で、猪狩は法廷に立ち、次のように主張した。

「検察が過剰な正義観念を振りかざし、目的のためには手段を選ばない捜査で作り上げた虚構の事実に過ぎない」

さらに「捜査段階の竹内の自白は、任意性を欠く」と述べ、大鶴検事による取り調べの「任意性」を正面から争う姿勢を示したのである。猪狩には、「刺された針を一本ずつ抜き取るように、徹底審理を求めて勝機をつかむしかない」という腹づもりがあった。

検察との全面対決を選択したことで、竹内は捜査段階とは一転して否認に転じた。しかし、保釈は認められず、東京拘置所での勾留は1年3か月に及んだ。以後の公判は、例を見ない長期戦へと雪崩れ込んでいく。

贈賄側の清水建設吉野照造会長も、捜査段階では井内顕策(30期)の取り調べに対して、竹内前知事に1,000万円のワイロを渡したことを認めていた。ところが、公判に入ると一転して否認に転じる。

吉野を取り調べた井内はこう振り返る。

「清水建設の吉野が供述を変転させた背景には、竹内知事の供述が『ワイロを供与された際に、吉野会長が知事のところに1人で来たのか、複数で来たのか』などについて記憶が不安定だったからだ。検事調書の信用性が最大の争点となり、吉野を取り調べを行ったわたしも法廷で尋問され、大変苦労した」

ある日、猪狩は筆者にこう漏らした。

「なかなか竹内さんの保釈が許可されず落ち込んでいたとき、接見で竹内さんから『先生、私は大丈夫です。そんなにがっかりしないで』と逆に励まされた。あの思いやりと気骨には胸を打たれたよ」

猪狩ら弁護団は、検察が提出した「捜査段階」の供述調書の大半について、証拠採用に不同意を申し立てた。不同意となれば調書は原則として証拠とならないため、検察側は竹内知事を「証人尋問」する必要に迫られた。

当然、法廷供述と「捜査段階」の調書に矛盾が生じれば、今後は検察側が「調書の方が信用できる」と主張し、再び調書の証拠採用を求める。こうした応酬は、双方に大きな負担を強いる消耗戦となり、審理は果てしなく長期化していった。

猪狩は後年、こう振り返っている。

「熾烈な駆け引きだった。若くなければ到底耐えられなかった」

前述の「新井将敬事件」が終結した1998年になっても、竹内裁判はなお続いていた。
1999年、竹内に前立腺がんが見つかり、手術後、体力は急速に衰えていく。2003年には認知症と診断され、翌2004年9月、一審判決を迎えることなく、87歳で死去。公訴は棄却された。

結局、竹内知事が問われていた総額9,500万円の収賄については、贈賄側の有罪が確定したことにより、事実として認定された。また、任意性が争われた自白調書についても、「本人の自由意思に基づく供述である」とする検察側の主張が採用されたのである。

猪狩が竹内知事とともに検察と対峙した、11年に及ぶ法廷闘争は、こうして幕を閉じた。

特捜事件から身を引いた・・・猪狩弁護士の思い

この二つの政界を揺るがした大型経済事件で弁護を担った猪狩のもとには、その後も東京地検特捜部の標的となった政治家や企業幹部から弁護の依頼が相次いだ。

しかし猪狩は、この二件を最後に、特捜事件の弁護からきっぱりと身を引いた。そこには、揺るぎない信念があった。

「多くは、ヤメ検としての顔を利かせ、水面下で特捜部と交渉し、グレーな部分を黒と認める代わりに求刑を下げてもらう。罰金の減額や保釈への異議を見送ってもらうよう頼み込む――そんな案件ばかりだった。グレーを黒に塗り替えるような弁護など、私には到底できなかった」(同書)

猪狩は、検察の論理も、被告の脆さも、身をもって知っていた。だからこそ、その狭間に立つことの重さと葛藤を、誰より深く理解していたのである。

「ゼネコン汚職事件」の裁判は、最終的に全被告が有罪となって幕を下ろした。だが、竹内知事の裁判で猪狩が提示した論点は、のちに2010年代、検察が厳しい批判にさらされることになる「供述調書至上主義」への、重要な問題提起でもあった。

その後の猪狩は、さらに深い闇へと踏み込んでいく。
弁護士会の「民事介入暴力対策特別委員会(民暴委員)」に身を置き、暴力団をはじめとする強大な“反社会勢力”と正面から対峙する道を選んだのである。社会の底に沈殿した問題の核心へ、真正面から挑む覚悟だった。

ちょうどその頃、熊﨑もまた検察庁で一つの節目を迎えつつあった。

かつて同じ現場で闘った二人の軌跡は、静かに、しかし確かに再び交わろうとしていた。

(つづく)

TBSテレビ情報制作局兼報道局
ゼネラルプロデューサー
岩花 光

《参考文献》
猪狩俊郎「激突」光文社
村山 治「安倍・菅政権vs検察庁」文藝春秋
熊﨑勝彦/鎌田靖「平成重大事件の深層」中公新書クラレ
村山 治「市場検察」 文藝春秋
読売新聞社会部「会長はなぜ自殺したか」 新潮社
井内 顯策/「愚直な検事魂」人間社

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