プロ野球の“闇”に挑んだ2人の男 暴力団排除めぐる終わりなき戦い...元地検特捜部長とヤメ検弁護士の宿命【平成事件史の舞台裏(33)】

「暴力団排除」という言葉が、いまほど社会に浸透していなかった時代がある。プロ野球界もまた、その例外ではなかった。
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球界の闇に真正面から向き合い、「反社会勢力」を締め出す礎を築いたのが、元東京地検特捜部長・熊﨑勝彦と、その右腕として奔走した弁護士・猪狩俊郎である。
やがてプロ野球の暴排が軌道に乗ると、二人はもう一つの巨大な“聖域”――テレビ局の不祥事調査にも深く関わることになる。
2007年、国民的人気番組が引き起こした前代未聞のねつ造事件。全容解明の最前線に立ったのが、熊﨑と猪狩だった。熊﨑は「外部調査委員会」の委員長に就任し、猪狩は実務責任者として加わる。
浮かび上がったのは視聴率至上主義のもとで事実が歪められ、裏付けや検証が機能しなくなった組織の構造的欠陥だった。
その後、熊﨑は2013年の「統一球問題」で揺れる球界の要請を受け、第13代プロ野球コミッショナーに就任する。家族の反対を押し切っての決断だった。
しかし、まさかの不祥事が起きる。それは読売巨人軍選手による野球賭博だった。「暴力団排除」は終わったはずではなかったのか――。
プロ野球と反社会勢力、メディアの不正、そして野球賭博へと連なる激動の時代。舞台は違えど、二人は生涯をかけて闇に切り込み、不条理と向き合い続けた。それを支えたのは、「事なかれ主義」に流されない覚悟である。
その歩みは、一過性の改革ではなく、終わりなき闘いの記録だった。
暴力団排除の陰で――テレビ局不祥事に挑んだ二人の調査
プロ野球界の暴力団排除への取り組みが一定の成果を見せ始めた頃、コミッショナー特別顧問の熊﨑勝彦と、ヤメ検弁護士の猪狩俊郎は、思いがけずテレビ局の不祥事の調査にも関わることになる。
メディア業界を揺るがした事案であり、本稿で触れておきたい。
2007年に発覚した、関西テレビ制作の人気番組『発掘!あるある大事典2』の大規模なデータやコメントの「ねつ造事件」である。
熊﨑は関テレから「外部調査委員会」の委員長を依頼され、猪狩は小委員長として実務を担い、全容解明にあたることになった。
猪狩は急遽、体制を整えた。「一番町法律事務所」の弁護士に加え、外部も含め16人を招集して、集中的に調査を進めた。
資料の精査や出演者や番組制作者への聞き取り。熊﨑と猪狩はまさに二人三脚で事実関係を洗い出していった。
経緯はこうだ。関西テレビは、2007年1月7日放送で「納豆ダイエット」を取り上げる。
問題となったのは、「納豆を食べるとやせる」という効果を「断定的に伝えた内容」だった。
放送直後から、全国のスーパーで納豆の売り切れが続出、入荷未定という状態が相次いだ。社会現象とも言える過熱ぶりである。
「ねつ造の可能性がある」1本のスクープが暴いた“ねつ造”
不正発覚のきっかけは一本のスクープだった。
番組内容に違和感を抱いた『週刊朝日』が独自に取材・検証を行い、「放送内容は事実ではなく、ねつ造の可能性がある」とのスクープ記事を掲載。これを契機に、事態は急展開を見せる。
関西テレビは2007年1月20日、緊急記者会見を開く。社内調査の結果、実験データやコメントにねつ造があったことを認めたのである。
つまり、実際には納豆を食べればやせるという「科学的根拠」は存在しなかったのだ。
翌21日には、同番組の放送を休止するとともに冒頭5分を使って虚偽だった内容を説明した。スポンサーの対応も早かった。
関西テレビ・フジテレビ系列の日曜21時枠で長年、単独スポンサーを続けてきた「花王」が降板することを決定。23日には番組の打ち切り終了が発表された。
調査で明らかになったのは、意図的な編集だった。
社内調査などによると発端は担当ディレクターがどこかで仕入れた情報だった。
ー納豆にはイソフラボンが含まれている。イソフラボンには「DHEA」が含まれている。その「DHEA」をネズミに飲ませた実験で、ネズミがやせたーーという三段論法の筋立てだった。
ディレクターはアメリカの大学教授を取材し、そのコメントを放送した。たが、そもそも教授が発言した趣旨はこうだった。
「納豆を食べればやせるなどということは知らない。イソフラボンがDHEAを増やすことはない。そもそも自分はネズミでしか実験していないから、人間がやせるかどうかは判断できない」
実験はあくまでネズミ、動物レベルのものであり、人間一般には適用できないーこれが教授のスタンスだったのだ。
ところが、放送期限が迫って焦ったディレクターは編集段階で発言内容を改変。まったく異なる日本語訳コメント、いわゆるボイスオーバーをかぶせ、あたかも教授が「納豆を食べるとやせられる」と断言しているかのように作り変えて放送してしまったのだ。
元特捜部長が自ら関西テレビ社員を“取り調べ”
「納豆ダイエット」の放送から3か月余り。外部調査委員会の委員長を務めた熊﨑は、調査結果を関西テレビに提出すると同時に報告書を公表した。
番組で放送された企画は、10年間で520本に上った。猪狩ら16人の弁護士が、それらを徹夜で精査した。
「VTR班、裏付け班、事情聴取班に分けて調べ尽くした。ヒアリングは原則として直接面談。ある意味、取り調べに近い真剣勝負だった。あまりに厳しい調査だったので、“あるある特捜部”と言われた」(猪狩)
その結果、「納豆ダイエット」以外にも、過去に放送した15本について、実験データや専門家のコメントについて不正が確認された。
その手法は多岐にわたった。実験のデータを番組の結論に合うように改ざんしたり、やせたとされる人物の写真をねつ造したり、中性脂肪の測定自体が架空だったケースもあった。
記者会見で熊崎は不正に至った要因をこう結論づけた。
「面白ければいい、視聴率を上げればいいという観念に呪縛され、良質の番組を提供しようという社会的使命が欠如していた」
「下請け、孫請けの外部プロダクションに丸投げし、制作現場を監督すべきテレビ局側に当事者意識が欠けていた」
報告書はさらに踏み込んだ。「事実に反する放送がなされる恐れを予見できた上、防止のための対策を講じることも可能だった」と局側の責任を明確に断じた。
熊﨑が疑問に感じたのは組織としての認識だった。
内容は正しいのか。裏付けはあるのか。なぜこれらの事実確認、チェック、検証の仕組みが機能しなかったのかーー。
つまり「ねつ造」のリスクは存在していた。それにもかかわらず、局側の責任者はなぜ見抜けなかったのか。単なる過失で片づけられる問題ではなかった。
「落としの熊﨑」に見せた責任者の涙と後悔
猪狩の脳裏には、「さすがクマさんだな」と強く印象に残る場面があった。
当初、局側は一貫して「番組作りは信頼関係が大事、制作会社がこんなことをするとは思いもよらなかった。自分は全く知らなかった」と言い張っていたという。だが猪狩らは、それを「保身に走っている」と受け止めた。
そこで外部調査委員長の熊﨑は、自ら責任者と向き合い、静かに語りかけた。
「立場はよくわかる。辛いのは君だけではない。今、関西テレビ全体の自浄作用が問われている。それにこたえる責任が君にはある。真実を語ってほしい」(「激突」猪狩俊郎)
説得は1時間以上に及んだ。やがて、頑強に責任を否定していた責任者は大粒の涙を流し、不正の見逃しを認めた。
「忙しくて制作会社に任せ切りになってしまい、注意が行き届かなかった」(同書)
東京地検特捜部で数々の大物政治家を自白させた「落としの熊﨑」の本領が発揮された場面だった。遡る1992年の共和汚職事件。熊﨑が収賄に問われた阿部文男元衆院議員から引き出した供述はあまりにも有名だ。
「選挙のたびに借金がかさみ、泥棒してでもおカネが欲しかった」
政治家が、資金集めに追い詰められた胸中を吐露した言葉だった。
また1993年、「キャピトル東急ホテル」の一室で、“政界のドン”金丸信元副総理と向き合い、巨額の不正蓄財を認めさせた一言は今も語り継がれている。
熊﨑「金丸先生、大人のままごと遊びはやめましょう」
猪狩にとって、関テレ責任者の「自白」は、そうした「割り屋の熊﨑」を思い起こさせるものだった。
「最初は明らかに保身の態度をとっていた関テレの責任者が、途中からクマさんの前で涙をぼろぼろ流しながら、自分が悪かったと謝罪した」(猪狩)
外部調査委員会の調査結果を受け、関西テレビは3月28日午後10時から15分間にわたり、放送法に基づく訂正放送を行い、視聴者に謝罪した。
4月3日には千草宗一郎社長が引責辞任。4月19日、日本民間放送連盟から1年間の除名処分を受ける。民放連への復帰が認められたのは、約1年半後の2008年10月だった。
同社が受けた打撃はあまりに大きかった。
「暴力団排除」を訴える猪狩弁護士に逆風
猪狩の反社会勢力との戦いは波乱に満ちていた。
プロ野球界の現状を目の当たりにした猪狩は、2003年4月、第一東京弁護士会の民事介入暴力対策委員長に就任すると、実務と並行して理論の構築に取り組んだ。
そこで行き着いた発想はこうだった。
「企業のあらゆる契約書に暴力団とは契約しないという暴力団排除条項を導入すれば、そもそも端から経済取引に介入しようとする暴力団を排除できるのではないか」
この発想はまさに「野球協約」に「暴力団排除条項」を盛り込む支柱となったものだ。
その主張を『暴排条項の法理と活用』(金融財政事情研究会刊)にまとめ、暴排条項をあらゆる企業の契約書、覚書などに明記する必要性を力説した。
しかし、一方でこんな声も上がった。
「暴力団、ヤクザにも人権がある。社会的に受け入れられるはずがない」
さらに追い討ちをかけるように、大きな壁が立ちはだかる。
2005年4月に施行された「個人情報保護法」である。
この法律の影響は大きかったーー「暴力団情報」は高度にセンシティブな情報であり、厳格に扱うべきだとの認識が広がったのだ。企業の間にも、暴力団員の個人情報にかかわる情報収集や共有ができなくなるのではないかとの思い込みが、浸透していったのだ。
猪狩はこう反論した。
「それは誤った考え方である。情報の活用ができなければ、反社会勢力を利し、のさばらせることにつながる。暴力団情報の活用は社会の利益のためになるものであって、その利用や提供が何ら制限されるものではない」(「激突」猪狩俊郎)
抱えていた仕事を中断し、猪狩はこの時期、執筆と編集に明け暮れた。それは理論武装を徹底するためだった。
2005年6月に執筆した本のタイトルは『個人情報保護と民暴対策―反社勢力情報の法理と活用』(金融財政事情研究会刊)。
この中で、猪狩は「暴力団情報」の入手は法律上も可能であり、反社排除のためには不可欠な情報であるとあらためて訴えた。
さらに発信は続く。暴排の具体的な手法を伝えるために『民事介入暴力の法律相談102問』(学陽書房刊)を刊行。
「個人情報保護法」によって暴力団捜査がやりにくくなった一方で、正当な「捜査関係事項照会」など法的手続きを踏めば捜査は可能で、同法は個人情報の収集や開示を全面的に禁じるものではないと論じた。
「小泉旋風」もまさかの逆風に・・・訪れた転機
だが、逆風は「個人情報保護法」だけではなかった。
小泉純一郎内閣の登場だ。
2001年から2006年の間、政権が推進した「規制緩和策」である。証券市場で取引の自由化が進み、法の網をかいくぐって短期間に巨額の利益を得る事例が横行。その背後には暴力団の影があった。
「反社を出資者として置くケースも多く、反社を太らせる一助になりかねない。反社は証券市場の仕組みや取引方法など規制の抜け道を熟知していた。これらのノウハウを活用しようという投資家が反社と組んでマーケットを荒らせば、やがて日本の証券市場の信用は著しく低下する可能性も秘めていた」(同書)
暴力団の不正な経済活動はますます巧妙化し、社会問題としての深刻さを増していった。
猪狩は昼間を暴排活動、帰宅したらすぐに仮眠をとり、静かな未明の時間を執筆に割いた。2006年に『反社会勢力からの企業防衛』(日経BP社)を刊行。日本経済を汚染する「暴力団のブラックマネー」から企業を守る必要性を強く訴えた。
そんな中、転機が訪れる。
2006年9月、小泉内閣が総辞職し、第一次安倍内閣が発足する。安倍晋三は52歳、戦後最年少の総理大臣となった。
「猪狩くんは相手が反社であろうと怯まなかった」
第一次安倍内閣の誕生は猪狩にとって追い風となった。2006年、安倍内閣は全閣僚による「犯罪対策閣僚会議」を立ち上げた。
「反社問題は放置できない」として「企業が反社による被害を防止するための指針」を策定し、同会議で了承した。
企業が反社会勢力と「一切の関係を遮断すること」を目標に掲げ、組織としての対応を求めた。すべての契約書への「暴排条項」導入の必要性を明記したのだ。猪狩がいち早くプロ野球に導入して以来、主張し続けていたことだった。
そんな紆余曲折を経て、2007年11月、満を持して刊行されたのが『反社会勢力があなたの会社を食いつぶす』(日本経済新聞社)である。
生涯を懸けた暴排活動の軌跡を刻んだ、渾身の一冊だった。
2008年3月、出版記念パーティーが開かれた。
発起人を務めたのは猪狩が慕う元東京地検特捜部長の熊﨑と、地元・福島県で猪狩をサポートしてきた地方銀行の会長。熊﨑が会場に選んだのは、東京・港区六本木の「岩崎小彌太記念ホール」だった。
岩崎小彌太は、三菱財閥の基礎をつくった第四代総帥。GHQ主導の自発的財閥解体を拒絶し、信念を貫いた人物として知られる。相撲取りを投げ飛ばしたという逸話もある生き様は、どこか猪狩と重なって見える。
熊﨑はスピーチでこう語った。
「反社会勢力に向き合うことは、ふつうは怖くてできない。警察にも弁護士にも家族がいる。だから、事なかれ主義がまかり通って、長い間、プロ野球界では反社が野放しになってきた。しかし、猪狩くんは相手が反社であろうと怯まなかった。それが彼の生き方だ」
その言葉には、弟分・猪狩への温かな敬意がにじんでいた。
2年後の2010年4月、「工藤会」の拠点を抱える福岡県で、全国初となる「暴力団排除条例」が施行される。
これを契機に各自治体で条例制定が加速し、2011年には東京都や沖縄県を含む全都道府県で施行が完了。契約書への「暴排条項」明記が、ようやく社会に定着していったのである。
悩んだ末、プロ野球コミッショナーを引き受けたクマさん
さて、話をプロ野球に戻す。
「暴力団排除」が進むなかで、新たな不祥事が起きる。2013年、球界を根底から揺るがした「統一球問題」である。
NPBは公式戦で使用する「統一球」を、反発係数の高い、いわゆる「飛ぶボール」へと変更していたにもかかわらず、その事実を公表していなかったことが明らかになった。コミッショナーの座にあったのは、大リーグ通を自任する元外交官の加藤良三だった。
加藤は選手会や世論から激しい批判を浴び、責任を取る形で辞任に追い込まれる。
その直後から、プロ野球12球団の間では「こういうときこそ、検事出身の熊﨑さんにコミッショナーを引き受けてもらうしかない」という声が自然発生的に広がっていった。
しかし、熊﨑は即答しなかった。
「引き受けるかどうか、本当に悩んだ」
実は家族の反対があったからだ。だが、数週間熟考した末、熊﨑はあえて“火中の栗を拾う”決断を下す。
筆者は当時、熊﨑と自宅が近く、東京・世田谷区大蔵にあった「厚生年金スポーツセンター」のゴルフ練習場で、たびたび顔を合わせていた。ある日、熊﨑は静かに胸中を語った。
「頼まれるうちが華やろ。最後の御奉公やと思った。もちろん、妻も子どもたちも大反対や。検察時代は金丸事件や大蔵省接待事件で権力を敵に回し、神経をすり減らしてきた。
プロ野球のコミッショナー特別顧問になってからも、悪質応援団の難しい裁判を抱えてきた。『そろそろもう少し楽をしてもいいんじゃないの』と家族は言う。けどな、やっぱり宿命やと思って腹をくくった。時間はかかったけど、最後は理解してくれたよ」
熊﨑は、悩んだ末に引き受けることを決めた。
2014年1月 、正式にプロ野球の最高責任者であるNPBコミッショナーに就任、混乱のただ中にある球界の舵取りを担うことになった。
読売巨人軍選手の「野球賭博問題」が発覚
しかし、熊﨑がNPBコミッショナーになると、まさかの事態が待ち受けていた。
「統一球問題」が収束した矢先の2015年、今度は読売巨人軍選手による「野球賭博問題」が勃発する。暴力団排除の取り組みから約10年が経過し、改革は順調に見えていたが、「闇の勢力」は、なお選手たちの周辺に影を落としていたのだ。
熊﨑はある男を調査委員長に起用した。
検察時代に“熊﨑軍団”で多くの事件を手掛けてきた腹心の元特捜検事、大鶴基成弁護士(32期)である。
大鶴は1993年の「ゼネコン汚職事件」で、当時の茨城県知事の取り調べを担当し、ワイロ受け取りの供述を引き出した「割り屋」として知られる。
野村証券・第一勧銀の総会屋事件、大蔵省接待汚職、日歯連事件など捜査の中核として関わり、東京地検特捜部長としては「ライブドア・村上ファンド事件」を手掛けた。
最高検検事、東京地検次席検事時代は小沢一郎氏をめぐる「陸山会事件」の対応にあたった。
弁護士転身後は日産自動車のカルロス・ゴーン元会長の代理人も務めた。
大鶴は自ら野球賭博に関与した当事者や関係者らへの聴取を行うなど、特捜検事さながらの本格的な厳しい調査を続けた。
調査の結果を受けて、熊﨑は読売巨人軍の3選手を「無期失格処分」として、球団は当該選手との契約を解除。さらに、管理体制の不備を理由に、球団に対して1,000万円の制裁金を科したのだ。
「野球賭博」で選手が処分されたのは、1969年に西鉄などの選手が処分された「黒い霧事件」以来のことだった。
この事件は西鉄ライオンズの選手らの八百長事件関与が発覚し、4人が永久失格処分を受けた。東映や中日などプロ野球のスター選手と暴力団員との「黒い交際」も相次いで表面化。西鉄のオーナーが辞任するなど世間に衝撃を与えた。
「クマさんがいなければ、球界は本当に浄化されなかった」
「野球賭博」でNPBコミッショナーとして矢面に立ち続けた熊﨑だったが、その粘り強さと決断力で、球界の信頼を辛うじてつなぎ止めた。
「クマさんがいなければ、球界は本当に浄化されなかったと思う。今も暗い影を引きずっていたはずだ」(関係者)
筆者は1992年に司法記者クラブで熊﨑の番記者となって以来、30年にわたり付き合いが続いた。折に触れて、お互いの自宅から近い世田谷通り沿いのスナック「セカンドハウス」で待ち合わせて、酒を酌み交わした。
熊﨑の社会正義へのまなざしは、晩年に至るまで一貫して揺らぐことがなかった。
「一度でも暴力団の要求をのんだら、骨までしゃぶられる。あいつらは巧妙や。反社や暴力団は仮面をかぶっている。どこで、どう弱みを握られ、どんな落とし穴に引きずり込まれるか分からへん。人間は弱い存在だけれど、裏取引に応じたらあかん。これは断言できる。プロ野球が完全に関係を断ち切れるかどうか――それは、たぶん一生の仕事やろな」
ある野球担当記者によると熊﨑は在任中、シーズンオフは必ず12球団のキャンプ地に足を運び、運動部の記者や球団関係者に気さくに声をかけたという。
「クマさんは必ず球団のカラーに合わせたネクタイを締めて現場にあらわれた。中日のキャンプ地ではブルー、ソフトバンクでは黄色、カープでは赤、楽天ではえんじ色をつけていた」(関係者)
周囲への細やかな配慮は、生涯変わらなかった。
反社会勢力排除の原点、そして終わりなき戦い
1990年代、東京地検特捜部が「政治とカネ」の闇に切り込んだ「ゼネコン汚職事件」と「新井将敬衆院議員事件」。熊﨑と猪狩は、2つの歴史的な事件で「検察側と弁護側」として対峙した。
しかし、熊﨑は検察庁退官後、後輩検事だった猪狩を頼ったのである。
「私は検察官としては二流に終わったが、ずっと一徹に生き、依頼者を裏切ることをせず、弁護士としてそれなりの成功を収めたものと密かに自負しているが、そんな私を信用してくれてのことだったのだろうと誇りに思っている」(「激突」猪狩俊郎)
猪狩を暴力団排除に突き動かしたものーその原点は、横浜地検で覚醒剤事件の捜査中、ある暴力団幹部に持ちかけられた裏取引だった。
暴力団組長はこう持ちかけてきた。
「組長なのに覚醒剤で起訴されたとなると、これからの私の立場がありません。起訴は勘弁してもらえませんか。子分に拳銃を出させます、5、6丁あると思います」
「拳銃押収」は、情報収集に高度な危険が伴う捜査だが、凶悪犯罪の未然防止の観点から、警察官にとって極めて大きな手柄とみなされ、高い評価につながる。
しかし、猪狩は心を鬼にして「裏取引」を断った。
「裏取引は覚醒剤の罪を起訴しない見返りとして、拳銃の押収に協力するというものだった。警察にとっては、喉から手が出るほど欲しい手柄ではあった。だがここで暴力団の取引に応じてしまったら、終わりだと思った」
猪狩は結局、覚醒剤事件の自白も得られず、組長を処分保留で釈放し、不起訴処分とした。無念の釈放だった。「せめて拳銃を押収したかった」と、訴えるような警察幹部の視線が忘れられなかったという。
プロ野球から始まった暴排運動は、その後、「Jリーグ」や「大相撲」でも適用された。そして今、あらゆるスポーツ観戦で暴力団関係者の出入りは禁止されている。
熊﨑と猪狩の関係は、師弟というよりも、戦友に近いものだった。二人が歩んだ道は、決して楽な道ではなかった。
だが、その道のりで生まれた静かな信頼があった。それは検察という枠を超え、人生という大きな時間の中で、確かに息づいていた。
「我々はこの社会にある不条理に鈍感になりすぎていないか。一切、こびへつらわない。それが一貫した私の生き方だった。細く長くではなく、太く短く花を咲かせる――そんな生き方だった」
死後に刊行された著書の中で、猪狩はそう記している。
(つづく)
TBSテレビ情報制作局兼報道局
ゼネラルプロデューサー
岩花 光
《参考文献》
猪狩俊郎「激突」光文社
熊﨑勝彦/鎌田靖「平成重大事件の深層」中公新書クラレ
清武英利「記者は天国に行けない」文藝春秋
読売新聞社会部「会長はなぜ自殺したか」 新潮社
村山治「市場検察」 文藝春秋