「お姉ちゃん、私の生きた証を残して」…戦後81年 妹の生きた証を平和の礎に刻む姉の思い 戦没者など24万人の名を伝える「沖縄慰霊の日」【news23】
沖縄県民の4人に1人が命を落とした、沖縄戦。その組織的戦闘が終結したとされる日から81年。沖縄は「慰霊の日」を迎えました。平和祈念公園にある「平和の礎」には、今年、新たに95人の名前が追加されました。その一人、異国の地で命を落としたひとりの女の子。「妹が生きていた証を残したい」。80年を超えて名前を刻んだ、家族の願いを追いました。
【写真で見る】「節ちゃん。遅くなってごめんね」妹の生きた証を平和の礎に刻む姉の思い
24万人以上の「生きた証」沖縄戦の記憶を刻む平和の礎
節子さんの姉 稲福昌子さん
「あった…節ちゃん。遅くなってごめんね」
今年(2026年)新しく刻銘碑に刻まれた、「漢那節子」の文字。たった一行の名前を抱くように触れ、話しかけるのは姉です。
沖縄県糸満市の平和祈念公園にある「平和の礎」。沖縄戦などで犠牲になった24万2659人の名前が、生きた証として刻まれています。
1945年4月1日に沖縄本島に上陸したアメリカ軍。戦闘に参加したのは延べ54万人もの兵力です。
住民を巻き込んだ数か月の沖縄戦で、日米双方、計20万人以上が犠牲になりました。
公園を管理する平和祈念財団の松川さん。礎の置き方にも意味があると言います。
小川彩佳キャスター
「波のような形に設置されているんですね」
平和祈念財団 松川満 事務局長
「一人ひとりの思いが、この波に乗って全世界に広がっていきますようにと願いが込められている」
組織的な戦闘の終結から81年。刻銘を希望する遺族は、今も少なくありません。今年(2026年)は沖縄県や県外、そして海外から計95人の戦没者が礎に。
シベリア抑留に飢餓…敗戦で一変した家族の日々
与那原町で夫と暮らしている漢那節子さんの姉、83歳の稲福昌子さん。生まれは、日本がかつて中国東北部に建国した満州です。
両親は沖縄出身で、国家公務員だった父、安昌さんが満州に赴任。そこで昌子さんと妹の節子さんが生まれたのです。
稲福昌子さん
「戦争に負けると同時に父はシベリアに抑留され、負けてしまったので、中国・ロシア(旧ソ連)からの逆襲を受けて、食料品を奪われたり、いろんな生活用品を奪われて」
旧日本軍の謀略に端を発した満州事変によって、1932年満州国は作られました。当時国策により、多くの人が「満蒙開拓団」として日本から送られます。
しかし敗戦間際、旧ソ連が満州に侵攻。155万人とも言われる日本人が、あてもなく逃げ惑うことに。その際、24万5000人が戦闘や飢餓、集団自決などで命を落としたのです。
「母に抱かれたまま亡くなっていた」写真も遺骨もない妹
極限の状況の中、幼子2人を抱えていた母・恭子さん。終戦翌年、沖縄へ帰ることを決意します。
1歳だった節子さんを、母はショールにくるみ、祖国へ向かいます。
当時住んでいたハルビンから鉄道で大連へ、その後船で京都の舞鶴へ行き、そこから沖縄に戻るというルートです。
稲福昌子さん
「妹は衰弱して、黒いストールに包んで、母は抱っこして。だんだん動きがなくなり、動けなくなり、母に抱かれたまま亡くなっていた」
小川彩佳キャスター
「このショールを見ると、どのような思いがこみ上げますか」
稲福昌子さん
「節ちゃんのぬくもりがあるのかなとか。節ちゃんを異国の地に置いて、次は私がかぶって。『私が亡くなったら必ず棺に入れてね』と家族に言っている」
栄養失調で息を引き取った妹・節子さんの亡き骸は、汽車が途中停車した際、その地に埋葬するほかありませんでした。
写真すらない中、遺骨の代わりに持ち帰ったものがあります。
稲福昌子さん
「線路際に穴を掘って埋葬して。母はその辺にある石ころを拾い、風呂敷に大事に抱えて持ってきたと聞いた。その時の母の気持ちを考えると、今まで抱っこしていた子どもを埋葬して、自分と私と2人は沖縄に帰らないといけない、この残酷な運命を」
「生きた証を残したい」――母が望み続けた平和の礎への刻銘
節子さんの最期について、母からきちんと聞かされたのは昌子さんが中学生になってから。それまで辛くて伝えられなかったのでは、と昌子さんは考えています。
家庭では父がシベリアから帰国。弟も生まれていましたが、節子さんが“生きた証”を残したいとの母の思いは強く、平和の礎への刻銘を沖縄県に申請。
しかし当時の状況や死因を証明することができず、認められませんでした。
稲福昌子さん
「とっても残念がっていました。申請の条件に合わない、それで却下されたという話を聞いた」
そして母76歳、父は89歳で他界。両親の思いを引き継いだのが、昌子さんでした。
稲福昌子さん
「戦後80年になって、本当に節ちゃんが私の心を揺さぶって。『お姉さん助けて、私の生きた証を証明してくれ』と。その責任を果たす義務があるんじゃないかと、そのためにまだ80まで生きているんだと」
2025年7月、当時の状況を見ていた知人の証言などを資料に加え申請。戦後80年が過ぎて、ようやく刻銘が決まったのです。
1991年開始の「平和の礎」 戸籍焼失などハードルも
一家全滅や遺骨も見つからない戦没者も多い沖縄戦。4人に1人が命を落とした沖縄県民の間では、“生きた証”を伝えようとする強い思いがあります。
1991年に始まった、戦没者の名前を残そうという「平和の礎」建立事業。ただ一家全滅に戸籍の焼失。最大の課題は名簿の収集でした。
それでも事業を後押ししたのは、沖縄県民の思いです。
刻銘の申請者
「調査漏れしていたから申告に来た。載せないと大変。俺の責任だからな」
そして1995年に迎えた除幕式。約5000人が参列しました。
遺族
「お家に遺骨も何もないでしょ。魂だけだから。きょうはもう泣きました、初めて」
「遅くなってごめんね」81年越しに果たした姉妹の再会
その平和の礎に、81年経って生きた証が刻まれた妹・節子さん。ようやく昌子さんが対面を果たす日です。
稲福昌子さん
「あった、節ちゃん。遅くなってごめんね。皆さんも良かったですね。追加刻銘できて良かったですね。節ちゃん、生きていたら仲良くできたのにね。一人で寂しい思いをしたね。会いたかった」
小川彩佳キャスター
「戦後81年、平和の礎に立って、節子さんのお名前の前に立つことができて、どういった節目になりましたか」
稲福昌子さん
「世代交代。私は今までいつも節ちゃんのことを気にしていたが、今度は息子や娘や孫たちがこの平和の礎に訪ねてきて、平和のありがたさ、戦争をしたらむごいことだと、どんどん感じてくれて、それが広がっていけばいいかな」
名前なき命も 遺族たちがつないだ“生きた証”
小川彩佳キャスター:
昌子さんは毎年欠かさず平和の礎を訪れていたそうです。刻まれたいくつもの名前を見つめる中で、妹・節子さんの名前をなんとかして残すことができたらという思いを少しずつ強くしていかれたそうです。
取材の日、新たに刻銘された別の方のご遺族にもお話を伺ったのですが、戦死したおじいちゃんの兄弟の名前がないことが、ずっとご家族の中で心残りだったそうです。やっと刻銘できてほっとしたとおっしゃっていました。
刻まれたお名前の中には「〇〇の子」や「〇〇の三男」といった、名前がわからない、あるいは名前がつく前に亡くなった方の存在も刻まれています。
平和の礎は一人ひとりの命を忘れたくない、存在した証を何とかして残したいというご遺族たちの思いによって紡がれ、育てられてきた場所だと思います。
昌子さんの背中を押したのも、ある意味ではその昌子さんの思い一つだけではなく、平和の礎に刻まれた多くの方々の記憶だったのかもしれないと思います。
国を越えて犠牲者刻む「平和の礎」、次の世代へつなぐ平和への思い
藤森祥平キャスター:
お一人お一人のお名前から、私たちももっと想像力を豊かに働かせなければいけないと感じました。こうして確かな温もりや生きた証を繋いでいけばいくほど、また新たな、より多くの記憶が広がっていく可能性も感じました。
地域エコノミスト 藻谷浩介さん:
平和の礎は、訪れるたびに寂しいのですが、心がすっきりと綺麗になるような場所です。
ここには日本の方はもちろん、全国から参加した兵隊の方も刻まれています。ここで大量に命を落としたアメリカ兵や、徴用されて沖縄にいて命を失った韓国や台湾の人、その他すべての人が刻まれています。
これは、日本の本来の伝統であり、戦が終われば両側の人を平等に供養するという伝統が生きている場所で、僕は戦争を忘れてはいけないという場所として世界一だと思います。
名前一つ一つから生きた証、大事に思っているものが伝わってきますよね。
私の親が戦災孤児なので、これが日本中、世界中のすべての犠牲者にある時代になればいいと思ってます。
小川彩佳キャスター:
誰かが名前を残そうと願って、その名前がまた誰かの背中を押していくという、その連なりの中でしか戦争の記憶というのは紡がれないと感じました。
藻谷浩介さん:
世界中でこれができる時代に、初めて世界は平和になると思いますね。
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<プロフィール>
藻谷浩介さん
地域エコノミスト 共著「東京脱出論」
(株)日本総研主席研究員