江戸幕府を開いた「徳川家康」。亡くなった後は「東照大権現」と称号され、信仰の対象になりました。
現在も全国にある「東照宮」と付く神社は、徳川家康を祀る神社です。
400年に渡り各地で信仰されているこの徳川家康は、お墓こそありますが、実は遺体がどこに安置されているか明確に分かっていません。
なぜ徳川家康の遺体の行方は不明確になっているのでしょうか!?その謎について解説します。
徳川家康が眠るとされる地:日光東照宮
遺体が安置されている場所というと、まず考えられるのがお墓です。
そして、徳川家康のお墓とされる場所が栃木県にある日光東照宮にはあります。
徳川家康の遺言
徳川家康は自分の死に際して、今後どうするかを時期も含めて細かく指示していました。
その中で「自分が亡くなったら『遺体は久能山に安置』し、『葬儀は芝、増上寺で行う』こと。『位牌は大樹寺にに納め』、『一周忌の後に日光に小さなお堂を建ててそちらに移動』するように」としていました。
1616(元和2)年4月17日、実際に徳川家康が亡くなると、周囲の人物はこの指示にしたがって葬儀などを執り行い、日光には東照宮が建立されました。
現在見ることのできる日光東照宮は、実は2代目の建物です。
最初の建物は徳川家康の指示通りに亡くなった翌年1617(元和3)年に完成しました。
その後、三代将軍「徳川家光」が日光東照宮を参拝した後に21年神忌に向けて『寛永の大造替』が行われ、現在のような豪華絢爛な姿に形を変えました。
徳川家康が眠るとされる「奥社宝塔」
1617(元和3)年4月8日、一周忌に際して東照宮の「奥社宝塔」に改装されました。
そして一周忌にあたる1617(元和3)年4月17日、神体を久能山から日光に移す遷座祭(れんざさい)が行われました。
最初に遺体が安置とされる:久能山東照宮
最初に遺体が安置されたとされる久能山とは、いったいどのような場所なのでしょうか。
死後間もなく久能山に安置された
徳川家康が晩年を過ごした駿府城から8kmほど離れた場所に久能山はあります。
そして、遺言に従い死後間もなく、徳川家康の遺体はここ久能山に安置されました。
久能山東照宮の最奥、現在は『神廟』として石造りの宝塔が建っていますが、そこに徳川家康の遺体は安置されました。
創建当初は木造桧皮葺の造りでしたが、現在の宝塔として再建したのは、日光東照宮同様に三代将軍の徳川家光です。
この神廟は、徳川家康の指示で西に向いて建てられています。
久能山からみて西方には、位牌を納める松平家の菩提寺『大樹寺』や徳川家康の生まれた『岡崎城』があり、さらには天皇の住んでいた京の都へとつながっています。
亡くなって一年後に移動した?
一周忌に際して遺言に従い徳川家康の遺体は日光へと移されたとされています。
しかし、その遺言には「勧請し候へ。」とはありますが、明確に改葬するようにという指示はありません。
従来は幕府の文献で「改葬」とあったため、信じられていましたが、近年の研究では遺体は移動させておらず、分霊をしたのではないかという考えが有力になっています。
他にもある候補地
久能山東照宮、もしくは日光東照宮に安置されていると考えられている徳川家康の遺体。
俗説などでは他の場所にあるとも考えられている他、遺体に関連する場所がありますのでご紹介します。
堺東照宮
大阪府堺市にある堺東照宮はかつて南宗寺境内にありましたが、建立当時の建物は第二次世界大戦の際に消失してしまいました。
現在は「東照宮 徳川家康墓」と書かれた墓がありますが、幕末に活躍した幕臣の「山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)」がここを徳川家康の墓と認めた碑もあることから現地ではこここそ徳川家康の遺体が安置されている墓と考えられています。
金地院東照宮
京都の左京区にある金地院、臨済宗のお寺ですがそこに東照宮があります。
遺言で金地院にもお堂を建てられており、徳川家康の遺髪と念持仏(ねんじぶつ)が祀られています。
芝東照宮
芝東照宮は葬儀が行われた芝・増上寺にかつて管理されていました。
明治に入り独立したこの東照宮には、徳川家康が還暦になった時に作らせた像が御神体として祀られています。
まとめ
徳川家康の遺体がどこにあるか、久能山東照宮や日光東照宮を調査すれば確かにすぐわかるのでしょうが、現在のところ発掘調査は一切行われておりません。
そのため、日光に遺体を本当に移動させたのか、分霊させたのか確かなことはわからないというのが現状となっています。