毎年お伝えしている綾瀬はるかさんの『「戦争」を聞く』。これまで70人以上の戦争体験者から話を聞いてきた綾瀬さん。今回お話を伺ったのは、太平洋戦争中に物資などを運ぶため海へ駆り出された民間の船に乗っていた男性です。当時14歳、九死に一生を得た壮絶な体験を聞きました。
【写真を見る】綾瀬はるか「戦争」を聞く~沈められた民間の船~ 当時14歳、九死に一生を得た元船員の壮絶な体験とは【news23】
戦時徴用船となり沈められた民間の船
79年前の8月14日、太平洋戦争が終わる前日の長崎県・平戸沖で、アメリカ軍の攻撃にさらされる日本の民間船の映像が2024年5月、初めて公開されました。
実は戦争の時、軍艦だけではなく、多くの民間の船が沈められています。沈んだ船、ひとつひとつに物語がありました。
港町・神戸に、ひっそりと「戦没した船と海員の資料館」があります。中には壁を埋め尽くす、太平洋戦争中に沈没した民間の船の写真がありました。
「戦没した船と海員の資料館」大井田孝さん
「南シナ海のこの辺は飛行機と潜水艦両方で、この近海でたくさんの船が沈んだ。すごい数ですよ」
戦争中、民間の船が戦時徴用船として国の管理下に置かれました。おもに東南アジアに武器や兵士を送り、帰りは石油などの資源を積みました。
でも、それはアメリカ軍の恰好の標的だったのです。
沈んだ船は約7240隻。6万600人の船員が亡くなっています。その3割はまだ10代でした。
「戦争に行きたくて…」14歳で船乗りに
船員たちを追悼する式典で、徴用船に乗っていた大矢秀二さん(94)に会うことができました。
大矢秀二さん
「船員が6万人も死んでいる。同じ思いをしている。生きている間は来ようかなと思って。でも来年は無理かも」
横浜に大矢さんを訪ねます。
新潟の米農家に生まれた大矢さん。9人兄弟の次男坊でした。国民学校・高等科を卒業したのち、船乗りを志し、和歌山の船員養成所に入ります。
綾瀬はるかさん
「大矢さんは14歳の時に船乗りになったと伺いましたが、なぜ船乗りになりたいと思われたのですか」
大矢秀二さん
「戦争に行きたくて。当時は必ず兵隊に行かなければいけないと思い込んでいたんです。小学校終わったら戦争に行きたい。国のためにやろうと」
当時、男子の多くは兵隊さんが憧れでした。でも、誰もがなれるわけではありません。
大矢秀二さん
「なにしろ(身長が)小さいの。143センチしかなかった。151センチ以上ないと(軍は)だめだった。どうやったら戦争へ行けるか、『船乗りがあるよ』と先生が話をした」
船乗りには身長の条件がありませんでした。その上訓練はわずか2か月で終了。戦争末期は船員不足から、短い訓練で皆、海に送り出されたのです。
1944年8月25日、大矢さんは機関士見習いとして乗組員35人と共に出港しました。
綾瀬はるかさん
「戦地に向かう怖さみたいなものはなかったですか」
大矢秀二さん
「何にもないね。兵隊になれないから船乗りになったんだから。やっと自分の希望が叶ったという感じ」
行き先も告げられない出港でした。このあとの運命など知る由もなく…。
乗り込んだのは、全長110メートルの『大明丸』。戦争末期に乏しい材料で急ぎ造られた船でした。
戦地に送る武器や兵士を乗せた大明丸は、18隻の船団を組んでいました。
9月9日、門司を出た一団。スピードは8ノット(約時速15キロ)。6隻の護衛艦とともに各地に寄港しながら進みます。敵・潜水艦を警戒し、陸に近い浅瀬を通りました。
綾瀬はるかさん
「南方への航行中、危険なことに遭遇することはなかったですか」
大矢秀二さん
「旅行気分。飛行機も潜水艦も見えない、潜水艦なんて来ないんだって」
しかし、敵は見ていました。
待ち構える米軍 標的は資源を運ぶ日本の民間船
狙われたら防ぎようがない魚雷攻撃。アメリカの戦術を大井田さんは言います。
「戦没した船と海員の資料館」大井田孝さん
「(日本の船団について)全部偵察で調べきった。アメリカは軍艦はほっとけと。資源を守る商船を全部沈めろと。SINK THEM ALLということで、アメリカ太平洋艦隊潜水艦司令部は決めた」
当時、東南アジアに資源を求めていた日本。その資源を運ぶ船は生命線でした。アメリカはそれに狙いを定めたのです。
ルーズベルト元アメリカ大統領(1944年6月)
「太平洋では潜水艦などの攻撃で、わが軍は日本の船舶を300万トン以上沈めた。日本軍は飢餓に直面するか降伏するしかない」
民間の船団に同行した護衛艦の艦長は、のちに、こう証言しています。
船団護衛艦艦長の回想
「終戦間近になると、港を出たタンカーは、すぐに沈められるというのが我々の常識になっていた」
10月6日、フィリピン・マニラに到着。積み荷と兵士をおろし、油田のあるボルネオ島に向かいます。
ここまでに沈められた船もありましたが、大明丸は無事ミリに入り、油を積み込みました。
深夜に突然…沈む船からの脱出
11月1日、日本に帰るため船がミリを出ます。
大矢秀二さん
「午前0時だから寝ていた」
大矢さんが蒸し風呂のような船室を逃れ、甲板で寝ていた、その時でした。
11月3日、ミリの北西350キロ付近。敵・魚雷が命中します。魚雷が当たったのは、油を満載した倉庫でした。
大矢秀二さん
「『魚雷だ!』って先輩に言われて、ドーン!でおしまい。油と海水と一緒にぶわーっと水柱をまともに受けちゃって。あれだけは絶対に忘れない。呼吸できない」
傾く船から何とか逃げ出そうとする大矢さん。
大矢秀二さん
「一所懸命、高いところに…船の先端半分は水に浸かっているから、船が斜めになっている。船尾は海面から10メートル以上浮いていた。そこに縄はしごをかけて、ボートを下ろして、ボートに移って船から離れた」
真夜中の海で目にしたものは、大明丸が沈んでいく光景でした。
綾瀬はるかさん
「どんな気持ちになるんですか」
大矢秀二さん
「何も考えずに、ただ呆然と見ていた」
船長を含む船員3人と、ミリから乗り込んだ民間人31人が亡くなりました。
大矢さんが日本に戻ったのは翌年の1945年1月、15歳の冬でした。
綾瀬はるかさん
「日本に着いた時はどんな気持ちでしたか」
大矢秀二さん
「そりゃうれしいですよ」
綾瀬はるかさん
「当時、攻撃された出来事は今もしっかり覚えていますか」
大矢秀二さん
「やられたときのことは全部覚えているよ。体で覚えちゃっている」
軍は、戦時徴用船に満足な護衛などつけませんでした。
「戦没した船と海員の資料館」大井田孝さん
「油を持って帰ってくればいいじゃないか。その間どうやって持って帰ってくるんだ、それが抜けている。人の命を疎かにする考え方、それがまん延しすぎたんじゃないかなと」
犠牲となった船の中には、数多くの漁船も含まれています。
漁船も“人間レーダー”として徴用され戦地へ
宮城県石巻市雄勝町に戦争前、漁船に乗せてもらったという人がいます。
青木虎三さん(89)
「シーズン始めの出漁の前に航海の安全と大漁を祈願して、そこの先2キロくらい走ってすぐ右折して」
ところが、戦争が始まると漁船は徴用され港からいなくなりました。漁船の主な役割は、近海でアメリカ軍の接近を監視すること。いわば“人間レーダー”です。
ある時、港に戻ってきた漁船を見ると見慣れないものがついていました。
青木虎三さん
「真ん中より前のところに大砲というのか、機関砲というのか、大砲の小さいやつだね」
でも、そんな装備は何の役にも立たず、攻撃されれば漁船はひとたまりもありません。
同じ町でも監視ではない任務に就いた漁船もあります。
カツオ漁船の船長だった髙橋松三郎さんは1941年12月徴用され、戦争が始まるとすぐ西太平洋、当時のトラック諸島へ向かいます。カツオ漁船で軍事物資を運んだのです。
しかし9か月後、帰国のために乗った船が沈められ、松三郎さんは亡くなりました。
松三郎さんの息子 髙橋洋治さん
「親父が徴用されたのは2歳未満。親父に抱かれた記憶もない」
父親の記憶がない息子。
一方、戦死の報せを受けた母親は、夫の死をすぐには受け入れられませんでした。
松三郎さんの息子 髙橋洋治さん
「お袋にしてみれば『死んだはずはない』。『親父だけなぜ帰ってこないのか』って言って捜し回ってあちこち訪ねている」
“船乗りが海で死ぬにしても、この死に方は違う“。そんな思いが浮かびます。
松三郎さんの息子 髙橋洋治さん
「国は道を誤ったと思う、今は。なんで無謀な戦いをしたんだろうと」
「戦争は悪い夢」80年ぶりの豊洲で感じるあの日への思い
80年前、東京・豊洲から、今と全く違う風景の中、南の海へ出港した大矢さん。
綾瀬はるかさん
「豊洲はいつぶり?」
大矢秀二さん
「80年になる。だから、浦島太郎。全然昔の形が何もない」
今、改めてうかがいました。
綾瀬はるかさん
「80年前に海の上で体験したことをどう感じますか」
大矢秀二さん
「悪い夢ですよね、戦争は。今、夢の国に来ているような感じ。戦争を思い出すと、幼い時の悪い夢見たな、平和っていいなって。今実際に建物から、人がぞろぞろ歩いている、緑を見てほんとうに感じる。戦争はない方がいいって、つくづくそう思うよ」