2000年の年末に起き、未だに犯人の特定すらされていない世田谷一家殺害事件。遺族で、当時一家の隣に住んでいた入江杏(いりえ・あん)さんは毎年12月になると、「グリーフ(悲嘆・悲しみ)」をテーマに、多様なゲストを招いて対話する会を開いてきた。
これまで作家、医師、画家らが登壇し、しばしば取材してきたが、今年は辺境探訪記が得意なノンフィクション作家・高野秀行さんがゲストだとのこと。いったいなぜ。気になって聴きに行ってきた。(TBS報道局 秌場聖治)
【写真を見る】「犯罪被害者遺族」という異境 ~世田谷一家殺害事件・遺族の新たな一歩
強いられた沈黙から、新たなつながりの場へ
東京・品川区。私鉄の駅で降りて踏切の脇の路地を少し進むと、新しくブルーに塗られた壁の家屋がある。
かつてここに住んでいた一家には仲の良い、二歳違いの姉妹がいた。別の地域の私立校に通った姉を、地元の公立校に行った妹は羨ましがることもあった。他方、地元のお祭りなどでは妹のほうが顔が広く、姉はそんな妹が逆に羨ましかった。
大人になった姉妹はそれぞれ結婚。姉は一家で英国に住んでいた時期もあったが、2000年の年末の時点では、姉妹は世田谷区で棟続きの二軒の家に、それぞれの家族と暮らしていた。姉は夫と息子、母と。妹は夫と娘・息子と。行き来も頻繁だった。しかし妹の一家4人は、12月30日の夜に侵入してきた何者かによって命を奪われた。犯人は未だに特定されず、よって動機も、何も、わからない。
なぜ妹たちが殺されなければならなかったのか。その手がかりすらない「曖昧な喪失」の中にいた姉に、凶悪事件の被害者遺族としてのスティグマ(負の烙印)を恐れる母は事件についての沈黙を強いた。しかし、その母が衰えていくのと合わせるように姉は、徐々に自らの体験を発信するようになった。その過程で姉は「入江杏(いりえ・あん)」という名前を得た。亡くなった姪と甥のアナグラムで創った名だ。
その入江杏さんが事件のあった季節にあわせ「ミシュカの森」という名の催しを開くようになって20年近くが経つ。「亡き人たちと出逢い直す」「悲しみの水脈で人とつながる」、そんなテーマで続けてきた「ミシュカの森」は、入江さんとゲストとの対話を通じてグリーフ(悲嘆・悲しみ)との向き合い方を探っていく集いだ。ミシュカとは、妹一家が大事にしていた子熊のぬいぐるみの名前で、片手で持てる可愛らしいサイズ。入江さんはイベントにいつも持ってくる。
ミシュカが置かれる会場はこれまでホールや大学の教室などが多かったが、今年は違う。入江さんは冒頭で触れた家屋、すなわち妹の泰子さんと少女時代を過ごした家を、このほどイベントスペースに改造した。泰子さんの長男・礼くんは発達障害があり、入江さんと泰子さんはかつて「礼くんも含めてみんなごちゃまぜでできる学びの場を作りたいね」という計画を話し合っていたという。事件で「中断・封印してしまっていた」夢を、別の形で実現したその場所で、今年の「ミシュカの森」は開かれることになった。
突然の被害・喪失という「異境」体験
いつもと違うことは他にもあった。これまで小説家の平野啓一郎氏や、ホスピタルクラウンとして活動する副島賢和氏、医師の故・日野原重明氏ら、比較的、グリーフケアというワードとのつながりが連想しやすいゲストがほとんどだったが、今年、入江さんが招いたのは高野秀行氏だった。高野氏と言えば「謎の独立国家ソマリランド」「未来国家ブータン」などで知られる、辺境ルポで有名なノンフィクション作家だ。「誰も行かないところへ行き、誰もやらないことをする」がモットーで、ユーモアあふれる筆致の高野さんと、犯罪被害者遺族である入江さん、という取り合わせは、初見では少々不思議な感じがした。入江さんからのお誘いもあり、また海外特派員をしていた私にとって高野さんはかなり気になるライターであることもあって、電車を乗り継いで臨場したのだった。
イベントでは入江さんの語りが終わった後、高野さんが最新作「イラク水滸伝」の取材の際に撮影したイラク南部の湿地帯(アフワール)の貴重な映像や写真を見せながら、自身の混沌とした旅行譚を披露していった。やたら歌の上手い船頭、適当なようでいて最後にはきっちりとした木造船を仕上げる船大工、たくさんの水牛を放牧する男などなど、強いキャラの異人たちが次々に登場、中東担当としてイラクを取材したこともある私は半分共感、半分驚嘆しながらどんどん引き込まれる。高野さんが「鯉の円盤焼き」と命名した名物料理「マスグーフ」の美味さも、南部バスラの生け簀レストランの記憶とともに甦る。
そうしているうちに気づいた。入江さんにとって、犯罪被害者遺族になったという経験は、一種、辺境を行くような感覚だったのではないか、と。
突然、慣れ親しんだ日常とは全く別の風景の中に放り込まれ、まるで異国の湿地帯で身の丈よりも高い葦の林をかきわけて小舟で進む時のように、次に何が起きるかわからない心細さを感じながら、刑事や我々マスコミといった、それまで関わることのなかった種類の「異人」たちに出会い、その振る舞いに戸惑う。それでも進んでいかざるをえない。そうした点においては高野さんの辺境旅行譚との相似形が描かれるのでは、と。
後日、改めて入江さんを訪ねてこのことを聞いてみると、「多少、牽強付会ですが」と前置きしつつ、アナロジーを一段深く説明してくれた。
「突然犯罪の被害に遭うこと、突然の喪失、突然のグリーフ、というのは異境体験でもあります」
「まるで大嵐の中に放り出された船のよう。船が難破して島に着いてみたら、そこの人は人種も違い、言葉も通じず、着ている服も違う。その中で、自分の体験をうまく言語化できない。そんな経験なんです」
「こうした体験がいかに言語化が難しいか、カオスの体験なのだということを伝えたい、と思っていました」
と語った。
それ故の高野さん登壇だったのだろう。合点がいった。
入江さんにとっての「言語化」は、事件発生直後から、まず警察の聴取に対して自らの知っていることを話すことだった。犯人逮捕に向けて必死に言語化しようとした。そこで何よりも重視されるのは事実関係だった。
次にマスコミの取材に答える、という言語化作業があった。ここでは事実関係に加え、「共感を求める言語化」を選んできたという。同情・共感を目指して「犯罪被害者」というペルソナを獲得する。そのためには大事件を受けて右往左往する警察や記者たちに感じた不可解さや滑稽さは一旦おいて、「ひたすら厳粛に」話ををすることになる。が、そうした"ペルソナに縛られた言語化作業"には息苦しさも感じていた。
そもそもカオスの中で自身の体験を言語化するのは至難の業であり、長い時間が経ってからようやく可能になるケースも多い。戦争体験や被災体験もそうだ。そこへ「事実関係に特化した語り」や「犯罪被害者遺族としてふさわしい語り」を求められ、自身もその枠にアジャストしていく中で、自らのグリーフと向き合いきれずに時間が過ぎていったとしても不思議ではない。
我々メディアは、犯罪被害者や遺族が抱えるそうした言語化の葛藤について、また、自分たちが犯罪被害者や遺族にとっては「異境で出会った異人」であることについて、どこまで意識的であるだろうか、そんなことを今更ながら考えた。
入江さんは自身の異境的・カオス的な経験を少しずつ言語化する水路を手探りで進んできた。自身のグリーフとも向き合うその過程では、同じように悲しみを抱えた人たちと繋がっていくことが大切である一方、自分と同じものだけを追い求めていくと「どんどん狭まっていってしまう」とも言う。そもそも全く同じ悲しみなどないのだ。そこから抜け出し「小さな翼を生やす」ためには、自分とは異質なものに触れ、そのバランスをとっていくことが大事、だと考えるようになった。
悲しみを語れる社会に “ブリコラージュ”的な営みを
今回、グリーフケアの活動の一環として新たなイベントスペースという“場”を作ったのも、フィジカルな“場”の力を利用して、グリーフを抱えた人たちが「異質」な人や眼差しに触れ、かつ楽しむことができるのではないか、その振れ幅を広げていくことができるのではないか、そんな期待がある。今後催す集いも、必ずしもグリーフケア関連のものばかりではないという。
今回の高野さんとのトークでのキーワードの一つは「ブリコラージュ」だった。文化人類学の巨人クロード・レヴィ=ストロースが用いた概念で、平たく言えば「その辺にあるありあわせのものを利用して別の目的に役立つものを作る仕事」。設計図やマニュアルが支配する「エンジニアリング」と対置される。高野さんによればイラクの湿地帯に住む人たちはまさに日々、生活の中で、あるいは生き方で、このブリコラージュを実践している、という。そこにはエンジニアリング化された社会にはない柔軟性と逞しさがある。
入江さんは「“悲しみ”はエンジニアリングとは相性が悪い」と言う。「“対処”とか、“処方”とか、マニュアル通りにできることではない」と。それ故に悲しみはエンジニアリング社会で見過ごされてきた、と感じる入江さんは、思い出の家であり、かつ一種ブリコラージュの結果でもあるこの新しいイベントスペースで、グリーフケアを、まさにブリコラージュ的にやっていこうとしている。
晴れ晴れとした空をイメージしたという外壁の色には、もう一つ、意味がある。
かつて入江さんは泰子さんと、この家の庭で蝶の羽化を見た。
幼い姉妹が固唾をのんで見守る中、蝶が初めての飛行のために広げた小さな翅は、綺麗なブルーだった。
その時の木は、今も同じ場所に立っている。