ミャンマーで軍事クーデターが起きたのは4年前。当時、出入国在留管理庁(入管庁)は、日本に住むミャンマー人が希望すれば在留や就労を認める「緊急避難措置」を打ち出し、約1万5千人に適用された。しかし一方で、救済の手からまったく取り残された男性がいると知り、TBS NEWS DIGで報告した。昨年暮れ、男性の元に東京出入国在留管理局(東京入管)から連絡が届いた。
(元TBSテレビ社会部長 神田和則)
【写真をみる】「国際基準に基づく難民認定を」などと訴える市民団体のデモ
「出頭通知書」が意味するものとは?
「あなたからの難民認定手続に関し、必要がありますので、2025年1月15日午後2時、当局に来庁してください」
日本で暮らすミャンマー人のマウンさん(仮名)に東京入管から「出頭通知書」が届いたのは、昨年12月26日だった。マウンさんは40代半ば、2002年に来日して23年、ずっと非正規滞在という不安定な立場にある。
この間、軍事政権に抗議して民主化運動に参加した。祖国に帰れば迫害を受けると訴えて難民申請したが認められず、裁判でも敗訴した。それでも「私は帰れない」と5回目の難民申請をした。以来、2年5カ月が経過したが、入管からは何の連絡もなかった。自分の一生を左右することなのに難民審査がどうなっているのかがまったくわからない。日々、焦りは募る。
そんな時に「出頭通知書」が届いた。「必要がありますので」の具体的な内容は書面に記載されていない。ただ、通知書が来たということは、ようやく難民として認定するか否かの結果が出たと思われた。マウンさんにとって、まさに待ち続けた瞬間だった。
難民ではない、緊急措置も適用されない
マウンさんは、どうしてそれほど難民申請の結果を待ち望んでいたのか、もう少し説明したい。
2021年2月、ミャンマーで軍事クーデターが起きた。入管庁は同年5月、日本に住むミャンマー人に対する「緊急避難措置」を発表し、ミャンマーの情勢不安を理由に希望する人には在留や就労を認める考えを明らかにした。
軍事政権からの迫害を訴えて難民申請した人についても「審査を迅速に行い、難民該当性が認められる場合には適切に認定し、不認定でも緊急避難措置として在留や就労を認める」とした。
「緊急避難措置」によって23年12月末までに約1万5000人に「特定活動」の在留資格が与えられた。ところが、マウンさんはこの中に含まれなかった。
なぜか。入管庁は制度上、難民申請者に対しては結果が出るまで在留資格には手を付けられないとしている。マウンさんの5回目の難民申請に対する「審査は迅速に」実行されず、判断は先延ばしになっていた。このため難民でもないし、緊急避難措置も適用されない“宙ぶらりんの状態”に置かれ続けた。
23年12月、そのことを知って記事にした。
「本当に(ミャンマーには)帰れない。危ない。自分の人生の半分以上を日本で過ごしている。友達や仲間は、みんな(在留が)認められた。何で僕だけが(取り残されて)…。悲しい」
マウンさんは06年に退去強制令書が出されているので、常に収容、送還の重圧が消えない。過去2回、入管に収容されてもいる。一時的に収容を解かれる「仮放免」で社会に出て暮らしてはいるが、仕事に就くことは禁じられ、健康保険には加入できず、入管当局の許可なしでは都道府県外への移動ができない。
自ら働いて稼ぎ、生活を支えるという人としての尊厳は奪われていた。
その後も時折、連絡して様子を聞いた。状況は一向に変わらなかった。
それどころか昨年8月、3カ月に1回の「仮放免」更新手続きで東京入管職員から言われた言葉に大きなショックを受けていた。
「6月でルールが変わった。難民申請が3回の人は、すぐに返すことができる。知っていますか?」
改定入管法が昨年6月に施行されたため、3回以上の難民申請者は申請中であっても強制送還が可能になった。マウンさんは5回目の申請なので対象になり得る。だがミャンマーでは少数民族や民主派の武装勢力と軍事政権との戦闘が激化、劣勢が伝えられる国軍は徴兵制を実施したが「国民に武器を向けたくない」という若者が次々と国外に出ているという。混乱する祖国に帰れるはずはない。入管の職員が、なぜ「すぐに返せる」などと言うのか、意図がまったくわからなかった。
昨年11月、再びマウンさんを巡る現状を記事にした。
「何もできない。(難民申請の結果を)ただ待つだけ。待つしかない」
こうした中で「出頭通知書」が届いた。行き詰まりを打開する大きな転機が訪れたのだった。
◎「これまで全部ダメだったので…」
年が明けて迎えた1月15日、マウンさんは朝から何も食べられなかったという。「もし山手線が止まったら」と心配になり早めに家を出た。午後1時には東京入管に到着した。
「これまで(入管では)全部ダメだったから…。緊張しています」
指定時刻の20分前、マウンさんは硬い面持ちで難民関連部門のある3階に向かった。「仮放免」での日本人保証人で、マウンさんが通う少林寺拳法の先生も駆けつけた。
そして…、待つこと約2時間、マウンさんが戻ってきた。表情は柔らかだ。手元に目を向けると、真新しい在留カードが握られていた。
マウンさんによれば、名前を呼ばれて入った部屋には入管職員とミャンマー語の通訳がいた。難民申請は認められなかったが、緊急避難措置として「特定活動6カ月 週28時間以内の就労可」の在留資格を与える旨が告げられたという。
かつて1年9カ月も収容され、先の見えない「仮放免」の更新に90回近く足を運んだ東京入管…、マウンさんは晴れて正規の滞在者と認められた。
「日本で頑張ってと、みんなから言われている気持ちが…」
マウンさんが難民認定を求めた裁判で代理人を務めた渡辺彰悟弁護士(全国難民弁護団連絡会議代表)は入管当局や裁判所の対応に疑問を呈した。
「彼は民主化運動に地道に従事してきて、本来ならば難民として保護されてしかるべき人物だ。クーデターが起きたにもかかわらず裁判でも敗訴し、不運なことにここに至るまで延々と待たされた。なぜクーデターから4年もたって緊急避難措置で在留が認められるのか、まったく理解できない」
そのうえで「(入管当局が)保護すると表明しながら対応を先延ばしにするのは、当事者にとってより大きな苦痛を伴うことを理解してほしい。彼の姿を見ていると、在留を正規化することは、外国人にとって尊厳を回復する第一歩だとわかる。緊急避難措置の意味は、まさにそこにあるはずだ」と強調した。
マウンさんは今後、住民登録と国民健康保険の手続きを済ませ、自動車学校の免許合宿に行って就職に備えるという。
別れ際、日本語でこんな言葉を残した。
「これから僕の人生が始まります。いま、みんなから『あなたは日本で頑張ってください』と言われている気持ちです」
人が、人として、尊厳を持って生きることができる。その重さをあらためて教えられた思いがした。