義理と人情、そしてお酒~元『朝ズバッ!』プロデューサーがみのもんたさんを偲ぶ~【調査情報デジタル】

テレビ界で一世を風靡したみのもんたさんが亡くなった。TBSテレビにおける冠番組『みのもんたの朝ズバッ!』で、約6年にわたってプロデューサーをつとめ、その後も公私で親交があった武石浩明氏が追悼文を寄せ、みのさんの知られざるエピソードを明かした。
【写真でみる】『朝ズバッ!』放送2000回達成を祝う みのもんたさん(2013年2月)
約半年前に傘寿をお祝いしたばかりで…
「TBS時代は僕にとって最高の時代でした。スタッフにも恵まれ、いい番組に恵まれ、そして僕は僕なりのいい終わり方をさせていただいたと思っています。皆さんと楽しい思いをできたことを非常にうれしく思っています」
去年8月30日、この前の週に80歳を迎えたばかりの、みのもんたさんの傘寿のお祝い会が、東京・赤坂のレストランで開かれた。『みのもんたの朝ズバッ!』の出演者やスタッフが集まり、みのさんはとても楽しそうにしていた。
このわずか半年余りあとに、まさか永遠のお別れをするとは…。3月1日、みのさんが亡くなった。
一世風靡から一転、そのときみのさんは…
みのさんといえば、TBSの歴史に残る『どうぶつ奇想天外!』『学校へ行こう!』などのほか、民放全局に大ヒット番組を持つレジェンドだ。
2005年にTBSの情報番組『みのもんたの朝ズバッ!』が始まると、「一週間で最も長時間テレビの生番組に出演する司会者」としてギネス世界記録™にも認定され、同年、第56回紅白歌合戦の司会も務めた。
『朝ズバッ!』は、みのさんの人生を変えた“運命の番組”だった。2006年10月、『朝ズバッ!』の世帯視聴率は、ついに週平均でトップとなり、番組がきっかけで政治が動く「みのポリティクス」という言葉まで生まれた。
しかし、2007年、いわゆる“不二家問題”が起きる。発足したばかりのBPOの放送倫理検証委員会が初の見解を出すことになる不祥事をきっかけに、視聴率も下落。こうした中、私は『朝ズバッ!』の担当となった。
NHKが朝の連続テレビ小説の放送開始時間を15分早めて8時にしたことも痛かった。『朝ズバッ!』のメインコーナーである「8時またぎ」で視聴率を伸ばせなくなったのだ。何をやってもうまくいかない時が過ぎていく中、みのさんに番組内容を変えてみたいと、私は相談した。そのとき、みのさんが一拍置いて語ったのは…。
「武石、とらやの看板見たことあるか?」
老舗和菓子店の「とらや」は室町時代後期に創業したとされ、400年以上の歴史がある。その看板は創業以来のもので、右から左にとらやと書かれている。
「『朝ズバッ!』の看板は何だ?」と、みのさんは問いかけた。番組の看板は、「8時またぎ」コーナーの際に、みのさんが回転させる特大の「またぎボード」だ。みのさんは「それ以外、徹底的に変えろ」と言った。
それまで番組の売りだったのは、公費の無駄遣いなどを厳しく追及し、みのさんが社会の不正を正すことだった。しかし、番組への信頼が失われたとき、同じことをしても視聴者の共感は得られない。むしろ、みのさんの魅力を視聴者にわかってもらう工夫が制作サイドに求められていた。
パラリンピックの地位向上に貢献
キーワードは、みのさんの自著のタイトルにもなっている「義理と人情」だった。
みのさんの真骨頂が発揮された1つが、パラリンピックを徹底的に応援したことだ。当時、障害者のスポーツは、福祉という視点でとらえられていた。そのため、オリンピックが文部科学省所管であるのに、パラリンピックは厚生労働省が所管し、メダルの報奨金も3分の1ほどだった。練習や移動の際に、自己負担を余儀なくされ、選手たちは苦境に立っていた。
象徴的だったのが、ある大手スポーツ用品メーカーが、オリンピックの選手にはユニホームを無償提供したのに、パラリンピックの選手には有料で提供したことだった。これを聞いたみのさんは「おかしいと思いませんか」と放送で繰り返した。
ほどなく無償提供となり、選手たちは喜んだが、みのさんがその後も同じ話を放送で繰り返すものだから、その会社が「もう勘弁してください」と泣きついてきたのを覚えている。
2010年のバンクーバーパラリンピックのあと、カナダ大使館で開かれた選手の慰労会の光景は忘れられない。選手たちから、みのさんへの感謝の言葉と拍手が鳴りやまなかったのだ。さらに、みのさんは当時の民主党政権幹部に直談判、パラリンピックの報奨金はアップされ、その後、所管も文部科学省に変更された。
2012年のロンドンオリンピックの取材に行った際には、みのさんとともに、パラリンピック発祥の地であるロンドン郊外のストーク・マンデビル病院を訪ねた。事故で半身不随になった人たちのリハビリ施設でもあり、患者さんたちは車いす生活でありながら、ものすごく明るく前向きだったのが印象的だった。
こうした番組の姿勢や様々な企画の結果、2010年7月を底に番組の視聴率が上昇を始めたのだ。
東日本大震災では自ら被災地へ
そして2011年3月11日、東日本大震災が起きた。復旧復興がテーマになってきたとき、私たちは「前を向いて歩こう」と題して、被災地応援キャンペーンを展開した。メインは、みのさんが直接、岩手・宮城・福島の被災地を訪ねて、被災者の話を聞き、応援することだった。
「お嬢さんおいくつ?」
「85歳です」
「えー!信じられない。84歳かと思ったよ」
被災者の方たちはみのさんの冗談交じりの話に笑い、そして、泣いた。
宮城県の震災がれきが県外で受け入れられない問題が上がったときもすごかった。みのさんは「震災がれきは47等分して全国で受け入れるべきじゃないですか」と繰り返した。その結果、実際に全国で受け入れられることになったのだ。
2012年3月、番組の視聴率は月平均で9%に達し、ついに復活を果たした。一度、視聴率が低下した番組が復活することは珍しい。年末に開かれた恒例の全スタッフ、出演者が集まる忘年会で、みのさんはみんなを前に語った。
「“勝利の美酒”っていうでしょ。あれは負けたことがある人にしか飲めないお酒なんです。勝ってばかりいる人には決して飲めないお酒です。きょうは勝利の美酒を味わいましょう。皆さんおめでとうございます!」
落合監督や「餃子の王将」とのつながり
プロ野球のキャンプの取材も思い出深い。毎年2月になると沖縄でキャンプをする横浜DeNAベイスターズ、北海道日本ハムファイターズ、中日ドラゴンズの取材に行くのが恒例なのだが、ドラゴンズでは毎回、落合博満監督が1時間近くも、みのさんのインタビューに応じるのだ。
マスコミ嫌いで有名なあの落合監督がなぜ?みのさんによれば、落合監督の背番号66にちなんで、監督が好きな秋田県の日本酒を66本贈っていたのだという。その日本酒には全て、落合博満の名前で「のし」がつけられていた。監督が世話になった人たちにプレゼントできるようにする粋な計らいだ。
みのさんはグルメで知られるが、実は牛丼やペヤングの焼きそば、たこ焼き、餃子などのB級グルメも大好きだ。放送後に「おいしい!」と言って食べる、みのさんの顔がいまも浮かぶ。
「餃子の王将」で開かれる飲み会も楽しかった。水道橋店にだけ飲み放題コースがあり、生放送終了後の午前中からスタッフ50人以上が集まり、大宴会が始まる。そこには必ず王将の常務が立ち合って大サービスをしてくれた。
宴会の最後には当時の王将の大東隆行社長とみのさんの生電話が恒例だった。王将が北海道に進出すると聞いたみのさんが、東日本大震災で自衛隊が奮闘したのを念頭に「自衛隊員が腹いっぱい餃子を食べられる店を作ってください」と話すと、木村社長は「はい、すぐにやります」と応じ、実際に自衛隊基地のすぐ近くに店が作られたのだった。
その後、木村社長が殺人事件で命を落とし、みのさんは驚き悲しんでいた。宴会の時に、いつも立ったまま我々を見守ってくれていた渡邊直人常務は事件の後、王将の社長に就任した。
みのさんが銀座のクラブをはしごする理由
みのさんが銀座のクラブを一晩で何軒も回るというのは、よく知られることだが、何軒も回る理由があるのだ。
ある時、みのさんから聞いた話。「○○さんからバランタイン30年が30本も届いたよ」。某大手芸能事務所の“偉い方”から贈られてきたのだという。
バランタイン30年といえば、1本10万円もするブレンデッドスコッチの最高峰で、みのさんの好きなお酒の1つだ。その“偉い方”は銀座にクラブを経営していて、みのさんはお返しのために、はしごする店の1つにしていた。
銀座のクラブでお酒を飲んでいて、いい時間になると、必ず妻の靖子さんから、みのさんの携帯に電話がかかってくる。翌日の放送を考えて、帰る時間も計算してくれていたのだ。
みのさんの手に“熱湯かけ事件”
お酒にまつわる失敗談も、数えきれないほどある。中でも一番は、みのさんに熱湯をかけてしまうという“事件”だ。
私がチーフプロデューサーになったとき、みのさんが行きつけの日本橋にある看板のないカウンターだけのステーキ店でお祝い会を開いていただいた。みのさんはいつもカウンターの一番左端の席に座るそうだ。昔、白洲次郎が座っていた席だとか。
その店では、焼酎の「神の河」を4、お湯が1の割合にしたお湯割を飲むのが恒例で、不思議とアルコールの強さをあまり感じずに飲めてしまう。みのさんにつがれるままに飲んでいると、途中からぷっつりと記憶がなくなってしまった。
翌朝、二日酔いで出社すると、上司から「お前、みのさんに熱湯かけたの覚えてないのか!」と驚かれた。どうやらお湯で割る役割を自ら申し出て、グラスに注がないといけないのに、グラスを持つみのさんの手に熱湯をかけてしまって大騒ぎになったらしい。
午前4時、みのさんは右手を包帯でぐるぐる巻きにして「痛い、痛い」と言って現れた。放送中に包帯を見せて、「これ武石ってやつにやられたんです」と言ったもんだから、私の親父から「お前何したんだ」とびっくりして電話もかかってきた。
火傷は靖子さんが馬油を丁寧に塗った効果もあり、ひと月後にはきれいに治った。私が靖子さんに「みのさんの手にお湯をかけてしまい、申し訳ありませんでした」と言うと、「あの人はお湯をかけるくらいがちょうどいいのよ」と言ってくれた。その後、みのさんが私に無理にお酒を勧めることが少なくなったのだけは幸いだった。
スタイリストで有能な秘書…妻・靖子さんとの思い出
靖子さんが亡くなった日のことも忘れられない。毎回、放送が始まると、靖子さんはサブ(副調整室)にいる私に電話をかけて来て、衣装のここを少し直してほしいなどの指示をするのがいつものことだった。それが「2、3日電話がないな」と思っていた2012年5月22日、放送中にみのさんが誰かからかかってきた電話を受けた後、スタジオの脇で私たちに向かい話した。
「いま靖子が亡くなりました」。がんで入院し、闘病していたのだという。靖子さんは病室から衣装直しの電話をかけていたのだ。私は涙が止まらなかった。
私の手元に、みのさんが私たちを撮った数十枚の楽しい写真がある。ある年の夏、上司の藤原康延さん、高田直さんとともに、完成して間もない鎌倉山のご自宅に招かれたときの写真だ。
みのさんは私たちが玄関に現れたときから、ご自宅を去るまで写真を撮り続けた。靖子さんの美味しい手料理をご馳走になった瞬間や、みのさんの衣装室に入ったときの写真も。膨大な量のスーツとワイシャツ、ネクタイを、靖子さんは美しく整理していた。
靖子さんはスタイリストであり、みのさんの有能な秘書でもあった。みのさんも靖子さんも私と同じ立教大学卒業。みのさんは「おい、立教大学」と言って、私をかわいがって下さった。
一番好きな“幻のウイスキー”を喜んでくれたみのさん
2013年2月、『朝ズバッ!』がついに放送2000回を迎えたあと、私は異動となり番組を去った。それ以来、感謝のしるしとして、私は毎年、ニッカウヰスキーの「鶴」をみのさんに贈ることにした。
ニッカの「鶴」はNHKの連続テレビ小説『マッサン』のモデルになった竹鶴政孝氏の最高傑作とも言われ、みのさんが一番好きなウイスキーだった。しかし、皮肉なことに『マッサン』によるウイスキーブームで原料不足となり、「鶴」は2015年に終売となってしまった。
ところが、国内で一か所だけ密かに「鶴」が作られていたことがわかった。話は数年前にさかのぼる。
ニッカの「竹鶴」が、英国で開催される国際的ウイスキーコンテストで世界最高賞を受賞したとき、大のニッカファンで知られる、みのさんに「竹鶴」がひと樽プレゼントされた。授賞式の後、私とみのさんは竹鶴政孝氏の養子、2代目の竹鶴威氏とニッカのブレンダーらスタッフとともにお酒を飲む機会があった。
あのときのニッカの人たちに聞けば…。私の狙いは的中し、ある工場だけで「鶴」が作られていることがわかった。特別に送ってもらい、みのさんに届けたら、すぐに電話がかかってきた。「武石、どこで手に入れたんだ!もったいなくて香りだけかいで、顔に塗ってるよ」と、冗談も交えて大変喜んでくれた。
去年の80歳のお祝いにも、みのさんにニッカの「鶴」を贈ることができた。そして、みのさんが大好きだった出演者やスタッフを集めて傘寿のお祝いもできた。「来年も誕生会やりましょう」とみんなで話したが、それはかなわなくなってしまった。
私が尊敬してやまないみのさん、心からご冥福をお祈りいたします。
〈執筆者略歴〉
武石 浩明(たけいし・ひろあき)
1967年4月生まれ
1991年 TBS入社 朝の情報番組『モーニングEye』担当
1994年 報道局 夕方ニュース番組『ニュースの森』ディレクター
その後、社会部の「警視庁担当」、「司法記者クラブ・キャップ」などを歴任
2008年 朝の情報番組『みのもんたの朝ズバッ!』プロデューサー
2009年 同『みのもんたの朝ズバッ!』チーフプロデューサー
2013年 報道局 夕方ニュース番組『Nスタ』チーフプロデューサーなどを経て
2016年10月 報道局社会部長
2020年7月 報道局担当局次長
2022年7月 株式会社チューリップテレビ現職出向
2024年7月 TBSスパークル取締役
【調査情報デジタル】
1958年創刊のTBSの情報誌「調査情報」を引き継いだデジタル版のWebマガジン(TBSメディア総研発行)。テレビ、メディア等に関する多彩な論考と情報を掲載。原則、毎週土曜日午前中に2本程度の記事を公開・配信している。