リアル“別班” 最後の日本兵・小野田寛郎さんが守り続けた「秘密戦士」としての密命 帰還の裏に隠された“外交の真実”【報道の日2025】

終戦から29年。一人の男が帰ってきました。熱狂の中、祖国に降り立った「最後の日本兵」小野田寛郎さん。
ジャングルに潜んでいたのは、ある任務を課されていたから。本人が記した記録に、こうあります。
司令部「別班」。
彼は、特殊任務を担う「別班」だったのです。最後の日本兵。帰還の裏側に、意外な真実がありました。
ジャングルに消えた「少尉」 戦争が終わっても潜み続けたワケ
1972年10月、フィリピンで、旧日本兵が現地の警察と撃ち合いになり、一人が死亡。一人は逃亡しました。やがて、逃げたのは小野田寛郎少尉と判明します。
現場となったのは、フィリピンのルバング島。
日本政府は、すぐさま捜索隊を派遣します。
旧日本兵の支援を担当する厚生省の職員と、小野田さんの家族、さらにフィリピン軍もまじえたタスクフォース・オノダが結成されました。
当時の捜索に通訳として参加した大野拓司(おおの・たくし)さん。後に新聞記者となり、小野田さんへのインタビューもしています。
捜索隊に通訳として参加 大野拓司さん
「小野田さんは傷ついているんじゃないか、撃たれているんじゃないか。捜索隊はすぐに見つかる、非常に楽観的。そういう気持ちでしたね」
捜索隊の呼びかけ
「小野田さんだったら手をあげてください」
捜索隊は、道なきジャングルに分け入り、海に出て船からも呼びかけ。
さらには上空から大量のビラも。「心配しないで早く出てきてください」と呼びかけますが、捜索は難航します。
それにしても、小野田さんは、なぜ、ジャングルに潜み続けるのか?実は、特殊な軍人として養成されていたからです。
「生き延びて、任務を完遂せよ」 叩きこまれた旧陸軍と真逆の精神
静岡県 浜松市 天竜区。ここに、1944年、東京にあったスパイの養成機関、陸軍中野学校の分校として、二俣分校が開校します。
どんな学校だったのか、生き証人が見つかりました。103歳の井登慧(いと・さとし)さん。小野田さんとは二俣分校の同期でした。
見せてくれたのは、分校出身者が戦後まとめた記録。
この分校の目的は、謀略、偵察、潜行などにたけたスパイを育てること。自然の中でのゲリラ戦術や破壊工作なども学んだそうです。
陸軍中野学校 二俣分校出身 井登慧さん
「河原で爆破演習をする。リュックサックに爆薬を入れて夜間潜入し、敵の陣地に行って爆破する。秘密戦の教育を受けたのだから、秘密戦士として活躍しろと」
当時の小野田さんは…
陸軍中野学校 二俣分校出身 井登慧さん
「(小野田君は)勉強家でね。日曜日、静岡に(皆は)息抜きに外出しますね。ところが小野田君は旅館の一室を借りて勉強していた」
分校で叩きこまれたのは、旧陸軍の玉砕覚悟の精神とは真逆でした。
陸軍中野学校 二俣分校出身 井登慧さん
「命を大事にせよ。生き延びよ。生き延びて、任務を完遂せよ」
「師団長からもルバング島では玉砕するなと。ヤシの実をかじってでも生きとれ。そういう命令だったんです」
でも、もう戦争は終わっていました。なぜ、小野田さんは、ジャングルにひそみ続けたのでしょうか?
3度の捜索も見つからず… たった一人で突破口を開いたのは
捜索時の記録が残っていました。帰国後の小野田さんに厚生省の職員が聞き取りをしたものです。実は、この捜索には裏があると疑っていたのです。
ルバング島から復員した元陸軍少尉 小野田寛郎に関する記録
「私の捜索に行くという名目で諜報機関も入れる」
ーー小野田さんはなぜ出てこなかった?
陸軍中野学校 二俣分校出身 井登慧さん
「中野学校の教育。“戦争が終わって平和になったから出てきなさい”おびき出して出たら殺す。中野学校では(敵に対して)宣伝工作をしろという教育」
そうとは知らず、当時86歳だった父の種次郎さんも島に入り、必死に呼びかけます。
父・種次郎さん
「寛郎、聞こえるか」
「出てくるか、もう出ないという意思の表示を今直ちに決断して日本の捜査団の諸君に申し出なさい」
姉・千恵さん
「寛ちゃん、姉さんのところに出てきてください」
「和歌山へ帰って、いっぺんお母さんに叱られてみたいと思いませんか」
ルバング島から復員した元陸軍少尉 小野田寛郎に関する記録
「寛ちゃん。寛ちゃんと、女の声がした。姉の声だったのだろう」
「3日ほど聞いていたが、自分としては理由があって出ないんだし、ノスタルジアになっては困るので、蛇山に移動した」
「肉親が来ても戦友が来ても同級生が来ても 全く出る気持はなかった」
捜索は3度にわたりました。延べ107人、約9000万円もかけたのに、あえなく撤退。
ところが、世界を放浪していた鈴木紀夫さん(24)という青年が、たったひとりで突破口を開いたのです。
「命令文を持ってこい」 29年目の任務解除
終戦から29年。単身、島に渡った鈴木さんは、目撃情報があった場所でキャンプをはじめます。
そして、ただひたすら待ったのです。
鈴木さんに気が付いた小野田さん。4、5日、その動向をさぐったあと、動きだします。
ルバング島から復員した元陸軍少尉 小野田寛郎に関する記録
「銃を持っておれば射殺すればよいと考え、銃に弾を装填し、近づいた」
鈴木さんは、震えながら2度敬礼。そして…
鈴木さん
「僕、日本人です。日本人です!」
小野田さん
「小野田だ」
鈴木さん
「戦争はもう終わっているのです。私と一緒におかえりになりませんか」
小野田さん
「俺をどうしても島から出したいのなら、谷口少佐の命令文を持ってこい」
「命令文があれば投降する」と約束したのです。
その後、鈴木さんが撮影した写真はさっそく日本に送られ、家族が確認。驚きと興奮に包まれます。
弟・滋郎さん
「寛ちゃんに間違いありません」
2日後、上官だった谷口元少佐が現地へ飛びます。そして、小野田さんを前にして命令文を読み上げます。
「参謀部別班命令 全任務を解除」
捜索に参加した大野さんは、小野田さんの気持ちの変化をこう推察します。
捜索隊に通訳として参加 大野拓司さん
「ひとりぼっちになって、いよいよ50才にもなるし心理の変化があったんでしょうね。私は戦っていたんだと。だから親兄弟が来ても帰っていくわけにはいかない。命令を受けて残れと言われたんだから、命令を解除してくれれば私は正々堂々と帰りますよと」
翌日、軍服に身を包んだ小野田さんが、初めてテレビカメラの前に現れました。
ーー今まで一番辛かったことは何ですか?
「戦友を失ったことです」
ーー今まで嬉しかったことは?
「29年間、嬉しかったことは今日の今までありません」
2日後。小野田さんは、30年ぶりに祖国の土を踏みました。スーツを着て、笑顔で手を振ります。両親は、長いこと、この日を待っていました。
母・タマエさん
「寛郎、よう生きて帰ってきてくれた。長い間、ご苦労でございました。えらかったの。ありがとうございました」
その陰で…日本政府に伝えられていた、ある事実とは。
「法を越えた異例の決着」 30人の犠牲 大統領が謝礼を拒んだ「真意」
小野田さん帰還の裏で、日本政府に伝えられた、ある事実がありました。
それは1950年以来、小野田さんら旧日本兵により住民ら約30人が殺され、100数人が傷つけられ、食料などが奪われたというものでした。
政府は反日感情が高まるのを恐れ、フィリピン政府に補償を行おうと考えます。
しかし、先の大戦でフィリピンに甚大な損害を与えた日本は、5憶5千万ドルの戦後賠償金の支払いをほぼ終えていました。当時、両国政府の交渉に携わり、のちに外務事務次官になった竹内行夫さんはこう話します。
元外務事務次官 竹内行夫氏
「もう一度賠償をやり直すという訳にはいかないのです。かといって、ルバング島の個人の方に何か賠償を、この家ではどれだけの被害を受けたから、この家庭には幾らという積み上げをしてやるというのも、フィリピンのみならず、他の国との関係でも波及するという問題もありえます」
そこで政府は、謝礼という形で3億円を支払うことに。マルコス大統領に伝えたところ、意外な答えがかえってきました。
元外務事務次官 竹内行夫氏
「(マルコス大統領)自分としてはこのお金は受け取るわけにはいきません。自分は小野田さんの軍人魂に本当に敬服したんだと。自分は彼を英雄だと思っている」
大統領は、小野田さんに罪を問いませんでした。そして、それをお金のためとは思われたくないと、謝礼の受け取りを拒否したのです。
その思いを受け、日本は、3億円を小野田基金という形で、民間に寄付することを提案。お金は、日本語学校の運営や留学支援など、両国の友好に役立てられました。
小野田さんは、帰国の翌年、兄のいるブラジルへ渡り、牧場をはじめます。様変わりした日本には馴染めなかったのです。
晩年は、おりおりに日本へもどり、自然の中で子どもたちの育成に情熱を注いだ小野田さん。2014年、91歳で亡くなりました。