【広島原爆の日“あの夏”の少女たち】最期の日記「きょうは良い日でした」と綴った亡き友へ…“同級生223人全滅”残された少女の葛藤【news23】
8月6日、広島に投下された原爆。その惨劇を物語る「原爆ドーム」は爆心地からおよそ160メートルに位置していますが、原爆の爆風と熱線は、このあたり2キロ圏内の建物を破壊し、焼き尽くしました。そこでは“学徒動員”として駆り出された多くの女学生たちも命を落としています。
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81年前の8月5日 最期の日記「今日はよい日でした」
81年前の8月5日のことが綴られた日記。
日記より
『8月5日晴れ 今日は大変よい日でした。これからも一日一善ということを守ろうと思う』
こう書き残したのは、当時まだ12歳だった石崎睦子さん。
この翌日…広島に落とされた原爆が、睦子さんの日常を奪い去りました。
睦子さんの1つ年上の姉‧䂓子さん(94)。
自宅の仏壇には、供えられたばかりの花とともに、睦子さんの写真が大切に飾られています。
睦子さんの姉 植田䂓子さん
「『きょうは大変良い日でした』で、どこか行っちゃった。毎日、二人で同じように学校に行って、楽しかったんだけどね」
当時、睦子さんと䂓子さんが通っていたのが県立広島第一高等女学校、通称「第一県女」です。
戦況が悪化する中、 “第一県女”の生徒らは、学徒動員で市内各地に駆り出されていました。
8月6日の朝、同じ弁当を持って、一緒に家を出た姉妹。
䂓子さん
「もうこれで会えなくなると思わないで、『じゃあね』って」
「こんなに小さいのよね…」唯一戻ってきた制服
2年生の䂓子さんは、現在の広島市⻄区にある印刷工場へ。1年生の睦子さんは、現在の中区‧土橋付近へと向かい、空襲による火災の延焼を防ぐため、あらかじめ建物を壊す建物疎開の作業にあたっていました。
䂓子さん
「まぶしいくらいピカーッと光るのよ。それが原爆の瞬間。あの頃は何かあると、親指を耳の穴に入れて、残った4本で目玉を押さえて、何かあったら地面に伏せろという練習を受けていた」
奇跡的に無傷だった䂓子さんは、その後引率した教員とともに川を渡り、近くの山へと避難しました。
䂓子さん
「広島市内が燃えていましたね。『お父ちゃん、お母ちゃん』って言って泣き叫んでる人もいた」
翌日、自宅に戻った䂓子さんは両親らと再会。しかし、睦子さんが戻ってくることはありませんでした。
睦子さんの帰りを待ち続けた家族の元に、唯一戻ってきたものがあります。
䂓子さん
「大事にしてくださって、ありがとうございます」
「むっちゃん、こんなに小さいのよね…」
8月6日の朝、睦子さんが着ていた制服。今は、原爆資料館に保管されています。建物疎開の作業のために着替え、近くに置いてあった制服を原爆投下から2週間後に父親が見つけ出しました。
見つかったのは爆心地から約800mの地点。この場所では、同じく建物疎開にあたっていた第一県女の1年生223人が犠牲になりました。
「同級生223人全滅」 “自分だけが生き残った”残された葛藤
睦子さんの同級生 高橋冨久子さん
「223名、全滅ですから。考えられないことですよね。天災でもないわけでしょ」
高橋冨久子さん(93)は、睦子さんの第一県女の同級生です。
高橋さんはあの日、偶然学校を休んだことで無事でした。
高橋冨久子さん
「(敗戦の)見通しが出来た戦争なら、何でもっと早く止めてくれなかったのって…今でも思います」
直後は、多くの同級生を亡くした悲しみさえ湧いてこないほど、心が麻痺していたと振り返ります。
高橋冨久子さん
「その年の9月か10月頃だったと思う。すごく暑い日に『(学校の)焼け跡に集まれ』ということで集まったら、校庭の真ん中に穴を掘って、学校の中で亡くなった方のご遺骨が仮に埋めてあった。それを掘り出して、皆でちゃんとした所へ移すという作業をした。その時に初めて涙がでた」
“滂沱のように流れた涙”のあとに残ったのは、「自分だけが生き残った」という後ろめたさ。
毎年執り行われてきた第一県女の追悼式にも足が向かず、参加できるまで30年以上の歳月が流れていました。
高橋冨久子さん
「33回忌の時に、むっちゃん(睦子さん)のお母様にお会いしました。その時に、むっちゃんのお母様が私の手を取って『あなた、生きとったんね』って言ったのね。それで、もう辛くて。手を握り返せなかったですね」
小川彩佳キャスター
「つらいというのはどういう気持ちですか?」
高橋冨久子さん
「なかなか説明できないですね。真面目に学校に勤労奉仕に行ったご自分のお嬢さんが亡くなって、私のように行けなかった者が生きて今そこにいる。別にそれを責められたわけでも何でもないんですけど」
「自己満足かもしれませんけれど」亡き友へ花を贈り続ける
以来、高橋さんはせめてもの供養になればと、睦子さんの面影を思い浮かべながら、原爆投下の前日(8月5日)に毎年花を贈り続けています。
高橋冨久子さん
「(生花店に)『可愛いお花にしてください』と。自己満足かもしれませんけれど」
睦子さんの姉‧䂓子さんから、お礼の手紙に気持ちが和らいだことも…
睦子さんの姉‧䂓子さんからの手紙より
「睦子と心の会話が弾みました。涙が流れました。冨久子ちゃんは選ばれて沢山の幸をお持ちの方。しっかりと睦子達の為に祈って下さいませ」
そして81年目の2026年、䂓子さんのもとには、高橋さんから“睦子さんを偲ぶ”花が届いていました。
䂓子さん
「わたし、いつも泣けるの。ふくちゃんありがとね。むっちゃん良かったね。ふくちゃんが忘れないでいてくれてね」
小川キャスター
「今も世界ではいろんな戦争が起こっています」
植田䂓子さん
「戦争のニュースを見ると、私たちと同じ思いで今も生きている人がいるんだと思うと涙が出る。戦争しちゃだめよ。戦争だけはしないほうがいい」
届かぬ被爆者の訴えと、後退する核軍縮
小川キャスター:
「戦争は絶対にしないほうがいい」
そう仰る䂓子さんですが、実際、世界に目を移せばロシアのウクライナ侵攻やアメリカとイランの軍事衝突など、核を持つ国が自ら戦闘を仕掛ける状況があります。
そうした現実に、䂓子さんは「こうして被爆体験を話してもどれだけ受けとめてもらえるか分からない。原爆を落とされないと分からないかもしれない。綺麗事じゃないのよ」とおっしゃっていました。
81年間、最愛の妹を失う苦しみの中で訴えても訴えても届かない現実に、虚しさと、どこか諦めの滲むような言葉でした。
藤森祥平キャスター:
この1年だけを見ても、世界の核軍縮は後退しています。大半の核兵器を持っているのが、アメリカとロシアです。
この両国の核軍縮の枠組み「新戦略兵器削減条約(新START)」が、2026年2月に期限をむかえ、失効しました。
つまり、アメリカ・ロシアを縛るルールが今、完全に消えてしまっています。
トラウデン直美さん:
この1年を見ても、争いが増えていて、力で何とかしてしまう、何とかなってしまう空気になっていることに危機感を覚えますし、そのようなことはあってはならないと思います。
戦争を経験された方々にとっては本当に辛く、考えたくもない状況だと思うのですが、だからこそ戦争を経験していない私たちがその切実な思いに耳を傾けて、危機感を感じるだけでは終わらせず、しっかり行動していく。「戦争をやりません」ということを宣言していくということが大切になってくると思います。
藤森キャスター:
こういう世界情勢だからこそ、植田さんのような戦争を経験した方の言葉や涙が本当に胸に刺さります。
広島から発信される世界へのメッセージが、より尊いものになっていると思います。
広島が今、世界に投げかける問い
小川キャスター:
平和公園では8月6日の午前8時から平和記念式典が行われます。そこで、広島の松井市長が読み上げる平和宣言があります。
大国の横暴な振る舞いが続いていることに加えて、今年の5月に国連の核拡散防止条約(NPT)の再検討会議で成果文書が採択できなかったことなどに言及される予定で、核軍縮の停滞していることについての広島の強い危機感がにじむ内容になっています。
さらに、『第三の広島・長崎を生み出しかねない』という懸念も盛り込まれる予定です。年々広島からの発信の危機感が高まっているように感じられます。
藤森キャスター:
広島・長崎の被爆地だけではなく、日本として世界に発信されるメッセージが注目されています。
日本はこの1年で、新しい総理大臣が就任し政権の枠組みが変わっているなかで、与党内では非核三原則の「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」の「持ち込ませず」について見直しを求めている声もあります。
トラウデン直美さん:
こうした動きを受けて、広島の方々からはどのような声があるのでしょうか?
小川キャスター:
被爆者のお一人がおっしゃるのは、「自分たちが望む世界とは、逆の方向に行っている」という言葉です。
私が平和公園に立つと思い出すことは、10年前のことです。
当時のオバマ大統領が、現職のアメリカ大統領として初めて平和公園を訪れたのがちょうど10年前のことです。
当時、現場を取材していて被爆者の方々が口々におっしゃっていたのは「ようやく。やっとここまで来た」という言葉です。涙と高揚感を滲ませていらっしゃいました。
そうした方々が、少しずつ積み重ねてきた結果としてできたのが『核兵器・原爆を二度と使ってはならない。使わせてはならない』という、人類共通の規範だと思います。
ただその規範に、今や公然と『とはいえ』という言葉がつけられるようになってしまっています。「とはいえ、安全保障環境が厳しい」「とはいえ、抑止力を手放すわけにはいかない」といったように。
もちろん、そうした議論は必要だと思います。ただ、広島に刻まれているのは、ひとたび原爆が使われた時の圧倒的なリアル、圧倒的な痛みです。
そうした記憶に触れた時に、私たちは同じ温度で「とはいえ」をつけることができるのか。そうした問いを、広島が私たちに投げかけているように思います。
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<プロフィール>
トラウデン直美さん
SDGsなどの社会課題に関心
特技は乗馬 初級馬術指導者の資格も