「ガラスのうさぎ」高木俊子さんが遺した言葉 “戦争を起こそうとするのは人の心”ーー1700回超の講演、あふれた涙…上皇ご夫妻との交流も

自らの戦争体験を綴った「ガラスのうさぎ」著者の高木俊子さんが8月8日、老衰で亡くなった。94歳だった。
累計発行部数240万部を超えるベストセラーで、映画やアニメにもなった。英語や中国語をはじめ7か国語に翻訳され、いまも読み継がれている。この本をきっかけに上皇ご夫妻とも交流を重ね、上皇さまが「慰霊の旅」を続ける思いを明かされたこともある。
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12歳で東京大空襲 母親と妹2人を亡くし父親は目の前で・・・
1977年に出版された「ガラスのうさぎ」。
「何も語れずに無念の死を遂げた人たちのためにも、戦争を語り継ぐ責任が自分にはある」
当時主婦として暮らしていた高木さんが、家族の33回忌を機に筆をとった。
1932年、現在の東京・墨田区生まれ。1945年3月10日の東京大空襲、米軍の無差別攻撃で一夜にして10万もの人が命を落とした。12歳だった高木さんも母親と2人の妹を亡くした。自宅の焼け跡から見つかったのは、ガラスのうさぎ。江戸切子の職人だった父親が子どもたちのために作ったもので、熱で無残に溶けていた。
「本来、ガラスはそう簡単には溶けない。それほどの猛火だった」
(2019年取材)
そのうさぎを携え、高木さんは疎開先の神奈川県二宮町へ。父親と共に二宮駅にいたところ、突然、米軍による機銃掃射を受けた。
「『あっ、機銃掃射だ』『ふせろ』と誰かが叫んだ。前を見ると女の人が倒れている。背中からぴゅーぴゅー血が噴き出している」
(「ガラスのうさぎ」より)
3発の銃弾を受けた父。 必死に肩を揺すったが、ぴくりとも動かなかった。47歳。終戦までわずか10日、1945年8月5日のことだった。
「たった1人になっちゃった...。これからどう生きれば」
「死んじゃおうと思って1歩2歩と海へ入っていったんだけど…。悲しかったですね。たった1人になっちゃった、これからどうやって生きていったらいいんだろうと」
(2015年取材)
死を考えて海辺をさまよったが「自分が死んだら、父や母や妹の墓参りは誰がするのか」と思いとどまった。ただ、戦時中の記憶は、その後も蘇った。
「花火がキューンとあがる音が、機銃掃射がキューンと急降下してくる音と同じに聞こえるんですよ。私は絶対に行かない、花火は見たくない」
(2015年取材)
中学生の秋篠宮さま「お父様お母様、どうぞお読みください」
高木さんは上皇ご夫妻と交流があった。秋篠宮さまが中学生のときに「ガラスのうさぎ」を読んだことがきっかけで、東宮御所に呼ばれることになったのだ。
「(1979年頃にお会いしたとき)美智子さまは、秋篠宮さまが図鑑ばかり好んで読んでいるのですとおっしゃって。物語をあまり読まない子だったが、本を持ってきて『お父様お母様、置いてきますから、どうぞお読みください』と初めて言ったのだと話してくださった」
(2017年取材)
上皇さまは本を読んだ感想をこう述べられたという。
「こんな体験をした人たちが、高木さんだけじゃなくていっぱいいたんだ。それに対して、わたくしは守られた。申し訳ない気持ちになった、みたいなことをおっしゃっていた」
上皇ご夫妻との交流 “慰霊の旅”続ける思い
上皇ご夫妻は、皇太子時代から長年にわたり戦没者の「慰霊の旅」を続けてこられた。2008年頃、高木さんが面会した際には、こんなやり取りがあった。
「『75歳を過ぎたら、もうお出ましにならなくて良いのでは』と申し上げたの。『今お倒れになられたら困りますから、おやめになった方がいいのでは』と伝えると(陛下は)『そうもいかない、遺言だから』と」
父である昭和天皇の「遺言だから」。そして、こう続けられたという。
「(陛下は)『御霊を鎮めるためにお参りに行きたい』『それがわたくしの使命だ』とおっしゃっていた」
「昭和天皇は外地へは行かれていないから、どうなっているか慰霊の旅をしてほしいと皇太子時代に言われたそうです」
全国で1700回を超えた講演 最後のメッセージ
全国各地で1700回を超える講演を行い、平和の尊さを訴えてきた高木さん。2019年6月、東京・千代田区の女子学院を訪れた。
「(東京大空襲から)1週間経っても死体が浮いていた」
87歳の誕生日を迎えたこの日、約900人の生徒を前に、語りかけた。
1時間近い講演を終えた後に「みんな真剣に聞いてくれてよかった」と話す手は震えていた。
「命を尽くして語る方々もどんどん少なくなっているということが、こんなにも恐ろしいとは知らなかった」
講演を聴いた生徒の感想文には、こう綴られていた。
晩年、難病と闘いながら満身創痍で講演活動を続けてきた。2019年8月、父と最期を共にした二宮町へ。車椅子に座ったままマイクを握った。
「戦争を起こそうとするのは人の心です。戦争を起こさせないようにするのも人の心です。戦争をしない心をしっかり持ってください 」
「きょうで全国行脚を終わりにします。憲法を守ってください」
講演のお礼にと、子どもたちが「ガラスのうさぎ」を題材とした歌を披露した。
「どこにいるやら焼け野原 幸せだったあの頃の ガラスのうさぎ抱いて立つ」
(合唱曲)
子どもたちの歌声を聞きながら、高木さんはあふれる涙を何度も拭っていた。
二宮駅前には、父の形見であるガラスのうさぎを持った少女の像が立っている。
記者と重ねた文通「まだ“平和の時代”」
神奈川県出身の筆者にとって「ガラスのうさぎ」は身近な存在だった。夏になると「はだしのゲン」や「二十四の瞳」等とともに、図書館の課題図書コーナーに並んでいたからだ。小学生で初めて読んだときのことを今も覚えている。
自分と年がそう変わらない俊子が大切な肉親を亡くし、海に身を投じようとした場面で涙を流した。記者となり、戦後70年の節目で初めて取材させていただいた。ガラスのうさぎが見つかった、当時の自宅跡を一緒に訪ねたこともある。その後、暑中見舞いや年賀状、引っ越しの挨拶など、毎年欠かすことなく文通が続いた。筆まめな人だった。
「戦前のような、いやな空気になってきました」(2023年)
「防衛費増額反対!!武器輸出反対!!の声をあげましょう」(2024年)
2024年の年賀状が最後のメッセージとなった。
去年、今年と年賀状を送ったが返信はなかった。筆をとれる状況ではなかったのかもしれない。手紙からは、いつも平和を願う思いがにじんでいた。
「まだ『平和の時代』ご子息ご出産とは心より『おめでとう』を申し上げます」(2022年)
戦後81年。また1人、語り部がこの世を去った。
(TBSテレビ社会部 高橋史子)