目立たないように暮らすことを「和光同塵(わこうどうじん)」と言います。
これらは自分の才能や学徳を隠し、世俗に合わせて生きていくことの例えとして使用される四字熟語です。
しかし、この言葉はどこから来たのでしょうか?
今回はこれら「和光同塵」について解説します。
ここではその意味だけでなく成り立ちや類義語についても説明します。
「和光同塵」とは
まずは「和光同塵」の意味について見ていきましょう。
「和光同塵」の意味
「和光同塵」とは目立たないように暮らすことの例えです。
特に自分の才能や学徳を隠し、世俗に合わせて慎み深く暮らすことを意味します。
日本に限らず力を持つ人がこれ見よがしにその力を見せびらかすと、大抵は反感を買ってしまいます。
むしろそれらの力は隠した方がうまくいくことも多いです。
それら世渡りについて説いたのが「和光同塵」となります。
これらは総じて自身の力を隠し、目立たないようにひっそりと生きることを意味する四字熟語と覚えておきましょう。
仏教用語としての「和光同塵」
「和光同塵」は仏教用語としての意味も持っています。
そちらも意味も併せて覚えておきたいところです。
これら「和光同塵」は仏教の教化を受け入れることのできない人を救うために仏様が姿を変えて人間界に現れることを意味します。
少し長いですが、要は仏様が本来の姿を隠して人間界にやってくることを言った言葉でもあるのです。
「和光同塵」の成り立ち
ここからは「和光同塵」の成り立ちについて見てみましょう。
特にここでは「和光」と「同塵」に分けてまとめます。
「和光」の意味
「和光」は才能や学徳を隠すことを意味する言葉です。
これは仏教の世界では威光を和らげることを意味します。
要は自分が持っている力をあえて隠すことを言った言葉となります。
「同塵」の意味
「同塵」は俗世に合わせることを意味する言葉です。
これは仏教の世界では塵に交わることを意味します。
つまり世間の空気に合わせることを言った言葉となります。
由来と鳴った言葉は「挫其鋭、解其紛、和其光、同其塵」
仏教用語としても使用される「和光同塵」は「老子-四章」にある言葉から来ているそうです。
その言葉が「挫其鋭、解其紛、和其光、同其塵」です。
この一節の後半部分が「和光同塵」を意味します。
そこから転じて「和光同塵」として広まったとされています。
「和光同塵」の類義語
最後に「和光同塵」の類義語についても見てみましょう。
内清外濁
「内清外濁」とは乱れた世の中を生き抜く処世術の1つです。
これらは内側では清らかでありながら、外側では世俗にまみれて汚れたふりをすることを意味する言葉です。
「内清」は心の内面など、中身に現れる部分を意味します。
「外濁」は体の表面など、外見に現れる部分を意味します。
これらは世俗との衝突を避けること全般を意味することもあるようです。
それら真実を秘めて調和を図るところが「和光同塵」と重なるのではないでしょうか。
大智如愚
「大智如愚」とは賢い人は第一印象ではむしろ愚かな人に見えることの例えです。
本当の賢者は知恵や技量をひけらかすことなどしません。
むしろ隠すことによって世間とうまく調和するわけです。
それらの点が「和光同塵」と通ずるものがあります。
能ある鷹は爪を隠す
「能ある鷹は爪を隠す」とは有能な人ほど能力を隠すことの例えです。
本当に優秀な人は偉そうなことを言ったり、むやみに力を見せびらかしたりはしません。
そうすることで他人から反感を買うことも避けているわけです。
それらの点が「和光同塵」と同じと言えるでしょう。
事実、世の中の人はみんながみんな力を持っているとは限りません。
だからこそ、あえて自分の力を見せないことも重要です。
それらの点を表現する言葉はいくつかあります。
特に「能ある鷹は爪を隠す」は日常会話でもよく耳にするので、ぜひ覚えておきましょう。
まとめ
「和光同塵」は本来持っている才能や学徳を隠して、世間と調和するように生きていくことの例えです。
これらはまとめて目立たないように生きることを意味することもあります。
実際に力を見せびらかすと反感を買ってしまいます。
そのため、隠した方がうまくいくことも多いです。
ただし、これら「和光同塵」には仏教用語としての意味もあるので、そこは併せて覚えておくことが重要です。