縁起物の「左馬」。
家などに飾られていることもある大きな将棋駒『飾り駒』の一種で、「馬」の字が鏡文字になって書かれている不思議な駒です。
鏡文字で書かれているのは、決して酔狂からではありません。
縁起物としての意味が込められているからこそ、わざわざ反転させた「馬」の字が書かれているのです。
この「左馬」にはどのような意味が込められているのでしょうか。
左馬は天童市独自の将棋駒
左馬という駒は日本全国で作られてはいません。
山形県天童市のみで見られる天童生まれの将棋駒です。
ちなみに、その読みは「ひだりうま」です。
決して「さま」ではありません。
将棋駒の名産地、天童
天童市は現在、将棋駒の生産量は日本一、実に9割以上を生産しており「将棋の町」ともいわれています。
竜王戦が行われる対局場も天童市内の温泉旅館にあることからも将棋と密着した関係だというのが分かります。
武士の内職としてはじまった将棋駒づくり
天童では将棋の駒作りが発展しているのか、その歴史は江戸時代までさかのぼります。
江戸時代後期、1865(元治2)年、天童の地を納めていた天童藩に将棋駒の作り方が伝授されたといいます。
藩ではこの将棋駒の作り方を困窮にあえぐ藩士すなわち武士階級に伝え、副業として将棋駒作りを奨励したのが始まりとされています。
現在では高級な将棋駒として有名な天童の将棋駒ですが、初期のものは形も不揃いだったこともあり低価格で庶民向けの将棋駒だったそうです。
藩士だけでなく藩も困窮していた天童藩
天童藩は2万石と石高も低い上に、天明の大飢饉や本拠地の火災など様々な災害が重なったため本拠地を移転させて1830(天保元)年にできた藩です。
貯えも無く、資金になるようなものも無い状態でできた天童藩は家臣の俸禄さえまともに支払うことができないどころか、俸禄を借り上げ、倹約令を出すことでなんとか体をなしていたといいます。
俸禄の借り上げをされていては、藩士たちが困窮していたというのも無理のない話です。
ちなみに天童藩の藩主は「織田信長」の次男、「織田信雄(おだのぶかつ)」の末裔です。
織田信長といえば江戸幕府を開いた徳川家康にとっても同盟相手だったわけですから、厚遇とまでいわなくてもそれなりの扱いをされていそうなイメージがありますが、お世辞にも扱いはいいといえなかったようです。
縁起物の飾り駒「左馬」
王将と書かれた非常に大きな将棋駒をお土産や古い家、もしくはテレビなどで見たことはないでしょうか?
この巨大将棋駒は実際に将棋で使うのでは無く、招き猫などのように飾っておく縁起物とされ「飾り駒」と呼ばれています。
「うま」を逆さから読むと?
左馬は「馬の文字」を逆さにして書かれています。
なので読みもそれに合わせて逆さから読むと「まう」になります。
「まう」は祝宴などおめでたい席で踊る「舞う」を想起させます。
そのため、「左馬」には福を招く縁起物といわれています。
この考えから、左馬はおめでたい席、特に新築祝いや開店祝いに贈るといいともいわれています。
商売繁盛に繋がる
馬は通常人が引いていきます。
しかし、馬が逆さに書かれた左馬では、逆の意味「馬が人を引いてくる」、つまり人を招いてくるという意味があるとされています。
この意味合いから左馬は飾れば千客万来、商売繁盛の願いが叶う縁起物とされています。
「馬」の字がお財布に見える
左馬でなくて、通常の馬もそうですが、漢字の下の部分が巾着の形状に似ているとされています。
巾着は、口はギュッとよく締まることから入れたお金が逃げない、富の象徴と古来からされています。
競馬のお守り
競馬の馬は左側から乗馬します。
逆に右側から乗ると馬がつまづき、落馬してしまうといいます。
この事から、左馬を持てばつまづくこと無く生きていける、ともいわれています。
また、このとこから乗馬のシンボルともいわれており、左馬を持っていると競馬に強いともいわれています。
馬は左から乗るもの・・・とも言い切れないらしい
日本に古くから伝わる乗馬術の中では右側から乗るとされていますので、馬は必ずしも左から乗るというわけではありません。
しかし、競馬用など常日頃から左側から人間が乗ってくる訓練を受けている馬の場合、急に右側から乗ってこられたら驚いてしまうということはありえそうですね。
まとめ
縁起物の飾り駒の一種「左馬」には「めでたさをあらわす」・「商売繁盛に繋がる」・「富の象徴」・「つまづかない人生」と縁起のいい意味が込められています。
鏡文字になっているのは、「うま」を反対から読んだ「まう」が「舞い」に通じ、おめでたい事を連想させるからなのだとか。