「総会屋への融資は病巣だった。いつか整理解消しないと…」第一勧銀トップらは反社会勢力の総会屋の「呪縛」を、なぜ断ち切れなかったのかー平成事件史 戦後最大の総会屋事件(7)

TBS NEWS DIG Powered by JNN
2024-06-29 05:08
「総会屋への融資は病巣だった。いつか整理解消しないと…」第一勧銀トップらは反社会勢力の総会屋の「呪縛」を、なぜ断ち切れなかったのかー平成事件史 戦後最大の総会屋事件(7)

昭和から平成期にかけて、反社会勢力である「総会屋」のビジネスを、日本を代表する証券会社が「一任勘定取引」で支えていた時代があった。さらにその資金は驚くべきことに日本を代表するトップバンクの「第一勧業銀行」が融資していたのであった。

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「第一勧銀」は背後にいた大物総会屋に怯えていたのだ。そうした状況の中でも、実は同社には「総会屋」との縁を切るチャンスが、再三巡ってきていたことが明らかになった。しかし、実際には不正を食い止めることはできなかった。その断ち切れない総会屋との「呪縛」とはいったい何だったのか、当時の捜査資料等をもとにドキュメントする。

巨額融資はなぜ止められなかったのか

「総会屋」小池隆一は野村証券など四大証券の株を大量に購入し、「株主提案権」という「強力な武器」を持つことにより、「小甚ビルディング」の口座に利益を付け替えるよう要求していた。その元手となった資金は、あろうことか日本を代表する大手都市銀行の「第一勧銀」から流れていたのだ。東京地検特捜部は1997年5月20日、強制捜査に踏み切った。総会屋への利益供与事件は証券業界だけでなく、エリート大手都市銀行の関与という新たな局面を迎えた。

「第一勧銀捜査班」キャップは、大分地検次席検事から戻ったばかりの大鶴基成(32期)だった。
午前9時、検察庁前の日比谷公園に集合していた検事、検察事務官100人の隊列が、大鶴を先頭に日比谷通りを渡った。そして「第一勧銀本店」に強制捜査に踏み切った。前例のない14時間半にもわたる入念な家宅捜索が行われ、深夜の第一勧銀本店からは、ダンボール600個分の証拠物が押収された。
大手都市銀行のエスタブリッシュメント「第一勧銀」に東京特捜部が強制捜査に乗り出すのは前代未聞だった。日本経済の血流に直結する金融機関に特捜部のメスが入ったのである。

しかも、同社がたった一人の総会屋「小池隆一」に融資していた金額は想像をはるかに超えていた。
この事件で第一勧銀は前会長の奥田正司ら11人の幹部が商法違反(利益供与)で有罪となった。認定された融資額は、1994年から1996年までの間、本体や関連ノンバンクの「大和信用」を使って不正融資された「117億円」に上った。
同社がのちに発表した社内調査によると、小池に対する融資は1985年から始まり、「大和信用」からの「う回融資」は総額「186億円」、第一勧銀本体からの融資は「274億円」に上っていた。
つまり、11年あまりの間に第一勧銀から総額「460億円」ものカネが湯水のごとく、反社会勢力とされる「総会屋」小池隆一側に流れ込んでいたのだ。

小池は1988年以降は毎年、第一勧銀の株主総会に出席していた。バブル期全盛の1989年2月、第一勧銀から引き出した「30億円」を使って、野村、日興、山一、大和の4大証券株を「30万株」ずつ取得し、「議案提案権」を手中におさめた。また「20億円」を使って、まずは野村証券に弟の名義で口座を開設している。

それにしても、第一勧銀は11人の幹部が不正を知っていながら、なぜやめられなかったのか。常識的に考えれば「総会屋」という反社会勢力への利益供与に反対する幹部がいてもおかしくないはずである。実は、「不正融資を断ち切る機会」が何回か巡ってきていたことが、東京地検特捜部の調べで明らかになっていた。

最初のチャンスはバブル経済が崩壊に向かっていた1992年7月頃のことだ。小池が「第一勧銀」に差し出していた担保株の評価額が暴落し、「小甚ビルディング」名義で56億円、実弟の個人名義で32億円が「不良債権」となっていた。しかし、そんな状況でも小池はさらに追加融資を求めて、こう要求した。

「野村証券の社長と会って、儲けさせてくれることになった。株の儲けで返済するつもりだが、元手がいるので、小甚ビルディング名義で30億円の融資枠をつくって、株の購入資金を融資してほしい」

この少し前、小池は4大証券に「一任勘定取引」で儲けさせるよう要求している。小池からの要求を受けて、第一勧銀の総務部長らは、審査部門の役員らに決断を仰いだところ、やはり融資には反対された。追加融資などとてもできる状況ではなかったからだ。小池はこの頃、予定していたゴルフ場開発が頓挫したこともあり、元本の利払いどころか、利払いもできなくなっていたのである。

小池が頼った「大物総会屋」

そこで小池は、総会屋の師匠である財界のフィクサー「木島力也」に「口利き」を依頼する。第一勧銀の首脳を小池に紹介したのも木島だったからだ。
大物総会屋の木島力也は、あの「戦後最大のフィクサー」児玉誉士夫の側近と言われた。木島は出版社「現代評論社」社長として全共闘世代の人気だった新左翼系月刊誌「現代の眼」を発行、鎌田慧、柳田邦夫など人気ライターらが執筆者として名を連ね、一時期は「文藝春秋」や「中央公論」などと並ぶオピニオン雑誌となる。若者からも熱烈な支持を得て、各企業から賛助金や広告料が集まっていた。

木島は1970年代には名馬ハイセイコーの馬主としても有名だったが、田中角栄が「刎頸の友」と呼んだ国際興業社主で「昭和の政商」小佐野賢治をはじめ、三菱系や4大証券の株主総会を仕切っていた大物総会屋の上森子鉄、広域指定暴力団「稲川会」の幹部など政財界や裏社会に幅広い人脈を築いていた。

木島は、「第一勧銀」が発足する前から、合併前の「第一銀行」と親密な関係にあり、合併を成功させた立役者として第一勧銀初代会長となった井上薫ら首脳陣と会食を続けていた。こうしたトップとの繋がりから幹部の人事にも大きな影響力を持っていたという。
また宮崎邦次が頭取の頃から、「第一勧銀」の幹部らは木島を囲んで年二、三回マージャン大会を開くようになっていた。事務方の総務部も月に一、二回、部長や副部長らがそろって木島を訪ねて機嫌を損ねないよう、極めて手厚くもてなしていた。

「第一勧銀の歴代の頭取や副頭取が新年のあいさつに行ったり、木島の主催するゴルフコンペに参加していた」(関係者)

とくに株主総会後に赴く謝礼の挨拶は欠かせない慣行となっていた。「第一勧銀」は1992年の株主総会を円滑に乗り切ることができたお礼に、総務担当役員と総務部長、次長の3人が、東京・京橋の木島の事務所を訪れた。そこで3人は木島から予想外の要請を告げられる。

「小池の融資の件、何とか考えてやってくれないか」

総務担当役員ら3人は木島に「追加融資は難しい」と説明したが、もちろん木島は納得しなかった。そこで木島はトップの宮崎会長、奥田頭取とセッティングするよう3人に要求した。

「それなら、俺がトップに話してもいいよ。宮さんなんかと飯でも食おうか」

3人からの報告を受けた宮崎は木島と会うことを承諾し、「融資する方向で考えるしかない」との決断に至る。

銀座の高級料亭「吉兆」での会談

木島事務所への挨拶から約2カ月後の1992年9月4日、築地の高級料亭「吉兆」の一室で会食が開かれた。メンバーは木島力也、第一勧銀の宮崎邦次会長(当時)、奥田正司頭取(当時)、総務担当常務、副頭取、総務部長(前任者)の5人とされる。

会食の名目は、食道がんの手術を受けて退院した木島の「全快祝い」だった。このためメンバーは木島が指名したという。会食が始まって約1時間、木島は宮崎と奥田に短く、こう伝えた。

「例の件、よろしく頼むよ」

宮崎は「わかりました」と言って約束し、奥田もこれに同調する趣旨でうなずいた。
これによって小池への融資打ち切りの方針は完全に覆されたのだ。宮崎と奥田という第一勧銀の経営トップ2人が、「総会屋」小池隆一に融資を約束した瞬間だった。

「吉兆会談」のあと、奥田は総務担当常務に「もう一度、練り直してもらいますかな」と指示し、担当役員は部下の総務部長らに説明した。

「宮崎さんと奥田さんが了承なさったので、審査部門とあらためて話をして、融資のやり方を考えなければならなくなった」

その結果、直接「第一勧銀」本体から融資するのではなく、系列ノンバンク「大和信用」を使った「う回融資」という案がまとまった。本体からは融資できない以上、系列を使うしかなかったのだ。
奥田は同行が実質的な債務保証をした上で、う回融資を行うものであることを認識した上で、「分かりました。総務の方できちんと管理してやって下さい」と述べ、実行に移すことを了承した。宮崎も同様に、総務部門から「う回融資」の方法について、段取りなどの報告を受け、「それで進めて下さい」と了承した。(冒頭陳述より)

会食から1カ月後、「う回融資」の段取りが整った10月上旬、第一勧銀の総務部長は小池を総務部に呼んでこう説明した。

「融資は、大和信用(系列ノンバンク)経由で対応することになりましたが、窓口は当行になります。この融資は、最終的には当行が責任を持つことになっているので、返済の方はよろしくお願いします」と述べ、小池は「分かりました。銀行さんには迷惑をかけません」と返答したという。

事実上、本体が保障するということだ。以後、翌年から4年間にわたり系列ノンバンクの「大和信用」から小池側に対する「う回融資」がはじまった。4年間の融資総額は「約200億円」に上り、第一勧銀からの直接融資を含めた総額は後に「約460億円」と判明した。

しかし、特捜部は「う回融資」の形はとっているとは言え、事実上、第一勧銀本体がリスクを保証しているため、本体からの不正融資と判断して立件に踏み切った。のちに審査担当役員は特捜部の調べに対して、こう供述した。

「総会屋への融資は病巣だった。いつか整理解消しないといけないと考えていました」

明らかに不正だとわかっていても、誰も声を上げることはできなかった。サラリーマン重役や幹部の意識としては当然、会社の業務としてやっているため、同情の余地はあるが、本来は公平に判断されるべき大手都市銀行の融資が、総会屋の圧力に屈したのだ。

大物「総会屋」木島力也が死去

「吉兆会談」から1年後、小池への融資を食い止めるチャンスが再び巡ってくる。
1993年9月2日、小池のバックにいた木島力也が「肺ガン」で他界した。67歳だった。

このときを振り返り、第一勧銀の社内調査に対して複数の役員が「木島力也の死去をきっかけに小池への融資をやめることは可能だった」と答えている。逮捕されたある総務担当役員は特捜部の取り調べに対してこう話したという。

「木島は第一勧銀の歴代トップと親交がある政財界のフィクサーと聞いており、当時の宮崎会長と奥田頭取も頭が上がらないような、得体の知れない力を持った人でしたから、その木島が亡くなったことは、不謹慎な言い方かも知れませんが、第一勧銀の総務部にとっても、総務部担当常務であった私個人にとっても、かなり負担が軽くなったと思いました」
(読売新聞社会部「会長はなぜ自殺したか」新潮社)

木島死去のあと、この役員は部下と今後の小池隆一への融資をどうするか、相談したというが「もし木島が亡くなったという理由で融資をやめたら、間違いなく小池を怒らせるだろう」という考えに至った。

さらにこう振り返る。

「宮崎会長と奥田頭取からはもちろん、審査担当役員からも、小池関連融資について“う回融資”を中止ないし縮小するようにとか、不良債権を回収するようにといった指示はまったくありませんでした」

「小甚ビルディング向けに、巨額の融資を行った最大の原因は、小池のバックにいた木島力也からの依頼であり、それを断りきれなかったことにある。木島の死後も同氏の『呪縛』が解けず、急に対応を変えることができなかった」(第一勧銀役員の供述より)

「木島力也の死」という最大のチャンスだったにもかかわらず、小池への不正融資は食い止められなかったのである。
(つづく)

TBSテレビ情報制作局兼報道局
「THE TIME,」プロデューサー
 岩花 光

■参考文献
村山 治「市場検察」文藝春秋、2008年
読売新聞社会部「会長はなぜ自殺したか」新潮社、2000年
村串栄一「検察秘録」光文社、2002年
大下英治「経済マフィア」だいわ文庫、2006年

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