若者による集団暴行致死や殺人事件が後を絶ちません。少年犯罪の更生について考えます。「史上最悪の少年犯罪」と言われる女子高校生コンクリート詰め殺人事件の加害者のその後を追いました。
【画像で見る】女子高校生コンクリート詰め殺人 義兄が語った加害者のその後
16~20歳の若者6人による強盗致死 18歳未満は減軽措置
冷たい風が頬を刺す、12月の札幌の夜。街で出会った少年が、ある事件について語り始めた。
少年(16)
「ニュースに出た時に、『これ(主犯格の男)と(少年)らしいよ』と。友達の家で会話をしていて、(少年)が(主犯格の男)に『お前、人殺したんだろう』とか言っていたと、その家に来ていた友達から聞いた」
2024年10月26日早朝、江別市の公園で千歳市の大学生・長谷知哉さん(20)が全裸姿の遺体で見つかった。
1月15日までに強盗致死などの罪で起訴されたのは、長谷さんの交際相手の八木原亜麻被告(20)、その友人の川村葉音被告(20)。
さらに事件の主犯格とされるのは、アルバイト従業員(18)の男だ。
そして主犯格と中学の同級生だった高校生の男(18)。川村被告と交際していたアルバイトの少年(17)。主犯格と同じアルバイト先だった少年(16)の6人だ。
取材に応じた少年は主犯格の男と街で知り合い、頻繁に行動を共にしていたという。
少年(16)
「(主犯格の男は)結構殴ったり蹴ったりする奴。金を借りて払わないで逃げられたとか。あと女絡み。『こいつの彼女浮気してる』と詰めたりしている。多分喧嘩がシンプルに好き」
起訴状などによると、暴行は数時間にわたり、殴る蹴るの行為は数百発にも及んだ。
長谷さんの頭や腹を踏みつけ「全部出せ、全額」などと言って、キャッシュカードを奪い、顔や腹を殴って暗証番号を聞き出した。6人は暴行や長谷さんに謝罪させる様子をスマートフォンで撮影したという。
強盗致死の法定刑は「死刑」か「無期懲役」。だが、18歳未満は少年法が適用され減軽される。更生、立ち直りが期待されるからだ。
17歳と16歳の少年は、いずれは社会に出てくる可能性が高い。
被告の手紙「償いきれない罪」高校生を橋から突き落とし
北海道では、旭川市でも若者による凶悪事件が起きた。2024年4月、女子高校生(17)が橋から川に落とされ殺害された。
逮捕されたのは4人。このうち内田梨瑚被告(21)と、当時19歳だった女は殺人などの罪で起訴された。16歳の少年は少年院送致となり、16歳の少女は保護観察処分が下された。
きっかけはSNSでのトラブル。内田被告は16歳の少年少女と女子高校生を車に監禁し、暴行するなどして連れまわした。
そして、あとから合流した当時19歳の女とともに女子高校生に暴行を加えたのちに橋の欄干に座らせ…
内田被告と当時19歳の女(起訴状によると)
「落ちろ」「死ねや」
女子高校生の遺体が見つかったのは、事件から1か月後。橋から60キロ離れた冷たい川の中だった。
当時19歳だった女は内田被告と数年前からの知り合いで、事件の1か月ほど前に再会し「舎弟」と呼ばれていた。
女が代理人の弁護士に宛てた手紙には…
当時19歳の女から弁護士に宛てた手紙より
「本当に取り返しのつかない事をしてしまって、被害者の子のご家族のお気持ちを考えると涙が止まらないんです」
「償っても償いきれないほどの重い罪を犯してしまって、どうしたら良いのでしょう」
「この先、一生一人の女の子の命を奪ってしまったという責任と重い罪を背負っていきたいと思います」
犯した罪をどうやったら償えるのか。史上最悪といわれた少年事件の加害者は更生したのか。
「女子高校生コンクリート詰め殺人事件」 加害者のその後
1989年3月、東京・江東区の埋め立て地でドラム缶にコンクリート詰めにされた
遺体が発見された「女子高校生コンクリート詰め殺人事件」。
殺人や強姦などの罪で実刑判決を受けたのは、当時18歳から16歳の少年4人。
事件の発端は1988年11月 、主犯格のAとCが埼玉県三郷市で見ず知らずの女子高校生(17)を性的暴行の目的で連れ去ったことだ。
そして、足立区綾瀬のCの自宅に40日間にもわたり監禁し、激しい暴行を繰り返して殺害、遺体を遺棄した。
1989年は昭和から平成へと元号が変わった年。
当時、空き地が広がっていた遺体の遺棄現場。36年経った今は、物流倉庫が立ち並び、大型のトラックが行き交う。
誰が置いたのか、遺棄現場を見守るように菩薩像が立っている。被害者を供養するため、今でも飲み物を供える人が後を絶たないという。
加害者は、その後どんな人生を送っているのか。
「自分に与えられた試練」同級生殺害の加害者が義理の弟に
準主犯格であるBの姉の夫、義理の兄が取材に応じた。実は、彼は殺された被害者と同じ高校の同級生だった。
結婚前、妻から「弟が事件の加害者である」と知らされたという。
準主犯格Bの義兄
「これは自分に与えられた試練だと思った。自分じゃないと乗り越えられないのかなと」
Bは裁判で懲役5年~10年の不定期刑の判決を受け、1999年に刑務所を出所した。
裁判での陳述によると、法廷でBは「被害者の女性がどれだけ熱かったか、どれだけ痛かったか。一生謝っても謝りきれない。僕の一生をかけても償っていきたい」と語っていた。
義理の兄がBと初めて会ったのは、刑務所から出てきて2日目のことだったという。
準主犯格Bの義兄
「こんな言い方したら変ですけど、薄気味悪い。嫌な印象しかなかったですね」
なぜ加害者は転落した 出所後も親子関係は歪んだまま
Bは出所してからコンピューター関係の仕事に就いたが、数年で辞めてしまう。義理の兄によると、職場で事件のことが噂となり、居づらくなったという。
会社を辞めたBは暴力団関係者と付き合うようになり、生活は一変した。
準主犯格Bの義兄
「出所したあとは、人生イチからですからローンもたくさん組めるし、自分のやりたいことは全てできる。それで高級車をローンで買ったり、とにかく目に余るぐらいの、ちょっとやりすぎじゃないかなっていう生活をし始めました」
埼玉県の実家でBと一緒に暮らしていた母親。更生の道から遠ざかっていく息子を止めることはできなかった。
親子関係は事件を起こした当時の歪んだままだったと、裁判でBを担当した弁護士は話す。
準主犯格Bの代理人 伊藤芳朗弁護士
「出所してすぐだったので反省するとともに、自分が二度と過ちを犯さないように頑張るんだということは言っていました。ただ、気になったのは出所したあと、母親のもとに帰ったが、既に親子の間でうまくいってないという話もあった。それがとても気がかりでした」
Bが3歳のころ、父親は愛人をつくって家を出て行った。母親は2人の子どもを育てるために夜の仕事に就いた。
高校を退学したBは、家庭内暴力を振るうようになる。
コンクリート詰め事件の裁判で提出された心理鑑定書には、家庭内暴力を母親に通報され見放されたと感じたBは、母親に対する屈折した感情を被害者に転移させ、それゆえ激烈で容赦のない攻撃となったと分析している。
準主犯格Bの代理人 伊藤芳朗弁護士
「彼がお母さんと良好な関係になれば、かなりの部分は解決できるかなと思っていた。そういったところに関わることができなかった。周りの社会資源というものも活用しながら、もう少し旗を振ることもできたのではないかなというのが私の反省です」
誓った償いはどこへ 10年間の獄中生活で現れた拘禁反応による妄想
2004年、Bは知人の男性を母親が経営していたスナックに監禁し、顔を殴るなどしてけがをさせる事件を起こした。
東京地裁で懲役4年の実刑判決を受ける。判決によると、Bは被害者に対して「殺すぞ、俺は人を殺したことがあるんだぞ」などと脅していた。
コンクリート詰め事件の裁判で誓った償いはどこへいったのか。
東京拘置所に勾留されていたBが、記者に宛てた手紙の中で事件についてこうつづった。
Bが記者へ宛てた手紙より
「前刑で私は刑を科されたというより生かして貰ったとしか言いようがないのも当時の自分は分かってましたし、今の自分も十分分かっております。また多くの人を裏切るかたちとなってしまって申し訳なく思っています」
では、なぜ再び事件を起こしたのか。Bは、自分が好意を寄せていた女性を被害者の知人男性ら3人が「横取りしたためだ」と主張した。
Bが記者へ宛てた手紙より
「あくまでも3人のだしぬき、横取りの件を聞きたかったんです。3人の証拠が欲しかったんです」
だが、それはBの思い込みだった。
準主犯格Bの代理人 伊藤芳朗弁護士
「Bは刑務所での閉塞状況の中で精神状態が不安定になって、ケアも受けられないまま増幅していった。いわゆる『拘禁反応』というのがあっただろう」
二度目の事件を起こす前から10年間におよぶ獄中生活で、Bには拘禁反応による妄想が現れていた。
準主犯格Bの義兄
「シャワーを浴びてるそうです。何時間も何十時間もずっと。『自分の悪行を洗い流したいんだ』って。おかしいですよね。下の階の人のところに行って、『ここは俺のうちだから出て行け』とか、壁から手が出てきて襲ってくるとか」
Bの妄想は、拘置所に面会をするなど支援していた義理の兄にも向けられたという。
準主犯格Bの義兄
「拘置所で私はBと面会したんですよね。そのときにお金入れて、『食べたいものを言いなさい』と。そんな話をしてた途端、スイッチが入ったんでしょうね。『てめえふざけんじゃねよ』『何、兄貴面してんだよ、お前よ』って。(Q.そのときの彼の表情は)怖いですよ」
Bが服役した当時の刑務所は、受刑者は刑務作業を行うことが大半で、事件や被害者のことを顧みる指導はほとんど行われなかった。
犯罪を起こした人の社会復帰支援に詳しい専門家は、刑務所が受刑者の更生につながっていなかったと指摘する。
立命館大学法学部(犯罪学)森久智江 教授
「自分のそれまでの生き方、あるいはそれまでの生育歴の中でどういった困難があったのかを振り返るような場面は非常に限定されていた。治療的な対応というのが刑務所の中ではやはり非常に難しい状況」
コンクリ詰め殺人から36年 加害者の最期
コンクリ詰め事件で刑務所を満期で出たBは、仮出所者に行われる生活や医療などの公的なサポートは受けられなかった。
出所後も、事件に向き合うことはなかったという。
準主犯格Bの義兄
「反省した様子は私からすると見られない。(Q.家族として彼らの罪に向き合うっていう場面があった?)今考えてみれば無かったんじゃないかな」
立命館大学法学部(犯罪学)森久智江 教授
「ほとんどの少年事件の家庭の状況は、何かしらの困難を抱えていることが多い。結局、事件の前とほとんど変わらない状態で、社会生活を送っていかなければいけないことを意味している」
「出所した時に家族がサポートの主体になる状況には、非常に限界があると思う。妄想性の何かしらの困難を抱えている方は、人間関係がうまくいかなくなることもしばしばあることだと言われています。社会的に孤立した状態に置かないということが非常に重要ではないかと思います」
知人男性への監禁傷害事件の後、Bは府中刑務所に4年間服役し、2009年に満期で出所。埼玉県内のアパートで生活保護を受けながら一人暮らしをしていた。
仕事はせず、ほとんど引きこもりの状態だったという。
準主犯格Bの義兄
「お弁当を母親が作って持って行って、そこに薬を混ぜて食べさせていたようです。生活保護費が入ると、全部たばこ買って吸っちゃう、そんな生活をずっと続けてたようですね」
最期は、孤独だった。
準主犯格Bの義兄
「最後はトイレに入って扉を開けて、そのまま倒れた状態で発見されました。救急車を呼んだけど、息もしてなかった」
知人女性
「自宅のトイレで倒れて、便器とタンクの間に頭がはさまって抜けられなくなったようです」
「精神科からもらった自分の感情を抑える薬を飲んで、トイレに行ってふらついてしまったのでしょう」
「葬儀は家族葬で行いました。死に顔は穏やかでした」
51歳だった。コンクリート詰め事件から36年。凶悪な少年事件は後を絶たない。