「戻りたい」「戻れない」福島・双葉町の今、増える除染土 見通し立たず…東日本大震災「15年を生きる」
福島第一原発事故から15年。避難指示が解除された地域では日々の営みが戻ってきていますが、避難指示解除を目指す区域や帰還困難区域では、いまだに人の営みは戻っていません。
そういった中で、15年をどう生きるのか。自宅がある街に戻った人・戻れない人・迷いながら日々を積み重ねてきた人。3人の「選択」を取材しました。
自宅解体で「思い出が全部なくなる」町に帰る人の苦悩
記者(2日 福島・双葉町)
「線量モニタリングポストが見えてきました。0.564マイクロシーベルトと表示されています」
福島第一原発がある町、福島県双葉町。
福島第一原発(2011年3月)
「本店、本店、大変です、大変です。3号機、たぶん水蒸気だと、爆発が今起こりました」
最大15メートルもの巨大津波に襲われ、水素爆発を起こした福島第一原発。大量の放射性物質が降り注ぎ、町は住めなくなりました。
双葉町で暮らす 國分信一さん(75)
「目の前の家が全部なくなってしまったので。思い出が全部なくなる、気持ちが寂しいですね。全部更地になっちゃいますから」
双葉町の自宅があったエリアの避難指示は4年前に解除されましたが、戻ってみると動物などの影響で荒れてしまい、泣く泣く解体を決めました。
それでも“双葉町で暮らしたい” 妻と過ごした町へ
“慣れ親しんだ双葉町で暮らしたい”。今は、町営住宅で暮らしています。
双葉町で妻と連れ添った30年。
國分信一さん(75)
「子どもを連れて海水浴場に行ったり、一緒に生活した場所」
「お裁縫クラブや、お茶会やったり。あの人がちょっと戻ってきたとか、そういう話をしています」
――戻ってきたと聞くと嬉しい?
國分信一さん(75)
「そうですね」
7000人以上いた双葉町の住民は、今は約200人に。國分さんは、数少ない帰還者の一人です。
15年経った今も、町の85%が帰還困難区域に指定されています。これが現実です。
自宅に戻る日を待ちわびている人もいます。
「戻れないってどういうこと」突然失われた日常と避難先での差別
志賀徳子さん(78)。今は隣の浪江町で暮らしています。
“私の町で何が起きているのか”…理解が追いつかなかったと言います。
“双葉町に戻りたい” 志賀徳子さん(78)
「テレビの中で煙がぽっと出るのは見た。戻れないってどういうことなのかなって。漠然とした気持ちで避難しなきゃなんねって」
避難先で、心無い言葉をかけられた人もいました。
志賀徳子さん(78)
「“双葉から来たんだべ お前らは”という感じ。偏見。放射能持ってきたってことでしょ。子ども達の差別もあった。『あなたたちはお金もらって逃げているんだ』って」
志賀さんの自宅があるエリアは、2027年3月までの避難指示解除を目指して準備が進むエリアです。2025年11月に規制が緩和され、ようやく通行証なしで自由に立ち入ることができるようになりました。
志賀徳子さん(78)
「自分が生まれたところ、そこで生活を再開することはできる。それは楽しみかな。自由に入れるようになって、行く回数も増える。うちに対しての思いは強くなっている」
自宅を訪れる頻度は増えました。
目の前にあるのに帰れなかった…悔しさが滲む“15年の空白”
志賀徳子さん(78)
「時が止まったままというのは、こういうこと」
家の中はあの日のまま。荒れた状態でも感じるのは我が家への安心感です。
志賀徳子さん(78)
「やっぱりホッとする、うちに戻ってきたという感じ。掃除してある程度リフォームすれば、住めるかな」
自由に我が家に出入りできなかった15年。流れた月日に悔しさも滲みます。
志賀徳子さん(78)
「目の前に自宅があるんだよ、だってうち見えるんだもん」
――バリケード越しの自宅にどのような思い?
志賀徳子さん(78)
「悔しいでしょ。道の周りに柿がなってる、イチジクがなってる、そういうふるさとだよ。15年も避難生活が続くなんて誰も思ってなかった。2日、3日で帰って来られると思っていた。元の生活に戻してよ。それだけなんです」
帰郷を阻む壁 増え続ける「除去土壌」の行き場に課題
除染が進む代わりに増え続けるのが…
記者(2日)
「除去土壌が山のように積まれたエリアが広がっています」
今回、私たちが取材に入ったのは「中間貯蔵施設」。大熊町と双葉町にまたがる広大なエリアです。
除染作業によって発生した土壌は、東京ドーム約11杯分にもふくれあがっています。県外最終処分の期限は約20年後ですが、これらをどこに持って行くのかは決まっていません。
記者
「こちらには公民館や神社など、街の皆さんの生活が色濃く残っています」
人々の営みの痕跡。ここに戻ることはできません。
一方、15年の節目を双葉町から遠く離れた場所で迎える人もいます。
高校の校舎にあった「もう一つの双葉町」
小畑明美さん(59)。自宅のあるエリアには今も戻れません。事故後15年間、避難先の埼玉県・加須市で暮らしています。
原発事故のあと、双葉町は町全体で加須市に避難しました。
明美さんも夫と6歳の息子とともに加須へやってきました。家族で、高校の校舎に身を寄せました。
埼玉・加須市で暮らす 小畑明美さん
「子どもたちにご飯を作って、お母さんたちとここ(校舎)でね。知ってる人たちばかりいるので、ここに帰ってくれば(双葉町の)みんながいる。ひとつの町でしたよね」
震災の1か月後、双葉町の子どもたちは加須市の小学校に入学。明美さんの息子も小学生になりました。
小畑明美さん(59)
「3.11から入学式迎えるまで、怒涛の一日一日だった。この日を迎えられたんだな。あんなことあっても」
いつしか加須での生活が日常になりました。
突然住んでいた街を追い出された戸惑い。それでも家族と生きていかなくてはならない現実があります。
小畑明美さん(59)
「これでいいのかなと思ってみたり、(福島)県内に戻るべきかなと思ってみたり。子どもも必死になじもうとしてるし、私たちも親も少しずつなじんでいかなきゃいけないのかなと思ったり。日々必死だった気がします」
帰還か、定住か 「町ごと避難」した家族の葛藤
徐々に加須での生活に慣れ始めたころ、夫・一彦さん(54)を病気で亡くします。
明美さんが忘れられないのは、当時12歳の息子がかけてくれた言葉です。ふるさとを思ってこんなことを言いました。
小畑明美さん(59)
「15歳になったら双葉に立ち入れる。『僕が納骨するよ』って言った。まだ幼いながらも、僕の生まれたところは双葉なんだと、そういう思いは何か残っているのかなって」
いつも双葉町のことを思いながら、迷いながら、目の前の生活に向き合ってきた15年でした。
小畑明美さん(59)
「(福島)県内に戻ったら、どういう生活していたかなとか。今が今でいいんだよねと言い聞かせて。小さな決断の連続だったので、これでよかったんだよねって」
あのとき6歳だった息子は、来年春には社会人になります。
今から15年、描く未来は。
小畑明美さん(59)
「双葉町は私が生まれ育った町。熱い気持ちは持っているけれど、加須に来ての生活は子ども中心だったので、この町(加須)で成長したという気持ちがある。双葉に戻るかどうしようかって正直もちろんあるけど、決められないというのが正直かもしれない」