放送界の先人たち・大山勝美氏~“凡人小事”から生まれた「ふぞろいの林檎たち」~【調査情報デジタル】

放送界の先人たちのインタビューが「放送人の会」によって残されている。その中から、「岸辺のアルバム」「ふぞろいの林檎たち」など多くの名作を生みだしたドラマプロデューサー、演出家の大山勝美氏のインタビューをお届けする。聞き手は、放送人の会会員でRKB毎日放送出身のドラマ演出家、久野浩平氏(故人)。
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ラジオ局のテレビ部門に入社
大山 私は早稲田の法学部を昭和32年に卒業するんですが、その当時、ラジオ局であるラジオ東京にテレビがくっついている「ラジオ東京テレビ」って名前の、今のTBSがあったんです。
久野 それはラジオ東京を受けたんですか。それともテレビとして別に受けたんですか。
大山 テレビ要員として受けました。当時はラジオが全盛でしたから、ラジオ東京テレビにはラジオ組がいるわけです。そこに、われわれ新卒の他に映画や演劇という、先行するドラマ関係のジャンルから人たちが集まってきていました。
当時は映画もラジオドラマも全盛で、すばらしい名作がたくさん出ていました。ですから、ラジオからテレビに来た人は、何かわけの分からない電気紙芝居の世界に飛ばされたっていう意識があって、泣いて抗議したとかね。
演劇や映画の人は、その世界ではもう一つ芽が出なかったので、新天地で頑張ろうという人。今思うと外れ者だったり、それまでいたジャンルを見限って新しいジャンルに飛び込もうとしているような、結構個性豊かな人たちで。サラリーマンじゃないわけです。
久野 浪人を集めたみたいな。
大山 おっしゃるとおり。戦国時代の浪人を集めた野武士みたいな集団でね、ものすごい活気がありました。
当時は、野球中継やプロレスを放送する「スポーツの日テレ」と「総合のNHK」という感じでした。そこで、ラジオ東京(TBS)がテレビをスタートさせるに当たっては、ドラマを局の特徴にしようと考えて、お店でいえば開店資金ですよね。その大半を使ったんです。
当時のテレビは、ミスはそのまま出るし、白くぼうっとぼやけて映りは悪いし。しかも映画界はもちろん非協力。五社協定というのがあって、映画俳優は出られないんです。そこで、歌舞伎や新派、新国劇の俳優さんに、専属契約みたいな形でテレビに出てもらえないかと持ちかけました。
彼らが出れば、こういう立派な演技者が出るということで、局のステータスも上がるし特徴にもなるんで、専属契約料を渡したんです。それで「東芝日曜劇場」※ という時間帯を作って、そういう人たちに、どんどんそこに出てもらうようにしたんですね。
※ 東芝一社提供の単発ドラマ枠、1956年12月~1993年3月までつづいた。93年4月からは連続ドラマ枠になる。東芝一社提供ではなくなったが、現在も日曜21時のドラマ放送枠として存続している。
昭和31年に、「もはや戦後ではない」という経済白書が出るんですが、ちょうどその頃、石原慎太郎が「太陽の季節」※で出てきました。さらにそこから太陽族とかが出てきて。
※ 「太陽の季節」(1955年) 石原慎太郎(1932〜2022)著
つまり戦争が終わって、戦前型の価値体系が少し壊れて、若い人たちがいろんな分野で発言し、表現していこうという時代にちょうどぶち当たったんです。そこで我々も、テレビという新しい、やってみると面白いこのメディアで、何か若者らしい表現、従来の演劇とも映画とも違う独自の表現方法があるんじゃないかと考えたんです。そういった意味でいろんな、先行している映画とか演劇の演出法なり表現法を勉強したことは事実ですね。
テレビ初期は文芸モノが主流
大山 それで昭和37年に視聴率表というものが出来てくるんです。毎日毎日発行される。それまで視聴率なんてなかったですから。
久野 電話調査※だけでしたからね。
※ 電通による。NHKは別途独自調査。
大山 なので、テレビに対する評価っていうのは、率ではなく、見た人の本当に内容的な評価だったんです。だから、数字がどうこうってあんまり気にしなくてね。面白い内容、刺激的な内容を作れば、ちゃんと届くという思いで作ってましたね。
久野 最初のうちはどうしても、テレビっていう新しい(高価な)機械が普及していくわけで、まあ、お金持ち、どっちかっつうとインテリの方からっていう感じでしたけどね、当時は。
大山 そうですね。ですから文化人たちが、興味を示しているのではと思ったんです。そこでNHKで和田勉さん※が、安部公房※の作品を手がけたり。
※ 和田勉 (1930〜2011)、安部公房(1924〜1993)
僕は寺山修司(1935〜1983)とか、大江健三郎(1935〜2023)の作品をやったりね。そういう意味では文化人、文学者がテレビという新しい表現媒体に強い興味を示してくれました。
今考えれば、よくそんなことが出来たなって思います。三島由紀夫さんの「鏡子の家」※ を、私がドラマ化するんですけど、そういう文芸ものの企画が通ってたんです。つまり昭和30年代には、それをちゃんと受け止めるお客がいたっていうことなんです。
※ 1962年7月4日~8月29日、水曜22時~22時30分放送。原作:三島由紀夫、脚本:田村孟・山田正弘、演出:大山勝美、出演:岸田今日子、杉浦直樹、山﨑努ほか。
久野 僕は「鏡子の家」を見て非常に感心しました。
大山 あの作品は、キャメラアングルとか、明かりなどの表現方法にものすごく凝りました。
原作は、三島さんの戦後の精神性をアピールする、メッセージ性の強い小説でしてね。若者4人が、鏡子という女性の家に集まる。サラリーマンだったり俳優だったり、ボクサーだったり。彼らはそれぞれ、日本再建の中で活躍するけれど、結局は滅びの道を歩んでいく。まあ、ご自身の生涯の結末を暗示するような最後なんです。ある種の社会的な広がりのある作品で、田村孟さんが書いてくれた脚本が非常に刺激的ないいもので、三島さんも喜んでくれました。
久野 この時期の、大山さんは…
大山 映像派でしたね。だからさっき言ったように、妙ちくりんな映像を意識的に作ろうとしていました。日常性から外れて、日常性をぶち破ろうと、若者らしい驕りと高ぶりで、何かこう新しい表現を、常に実験をということで映像に凝ってたことは事実ですね。だから、一部の評論家から「機械を扱って、人間をおもちゃにしてる」っていう批評を受けたりもしました。
テレビドラマは社会性か娯楽性か
大山 37年に、「視聴率(の計測)が始まった」って言いましたけど、NHKの大河が38年に始まるんです。その頃から映画はだんだん調子が悪くなって、一方テレビは、受像機が増えて、昭和37年に1,000万台になり、そこからもうあっという間に1,500万台に増えていく。そこで、大衆にアピールする、楽しんでもらう大型エンターテインメントということで、大河※ が出てくるわけです。
※ 大河ドラマ第一作「花の生涯」、1963年4月7日~12月29日放送。
久野 映画は、何と言っても娯楽作品で商売してるわけで。もちろんテレビだって、商売っちゃ商売なんですけれども。あの時期は、商売よりやっぱり内容という感じで。
大山 そうですね。新しい表現の道具が出来たと。やっぱり若い人の力で新しい領域を開拓しなきゃいかんぞというふうに、自分にも言い聞かせてましたね。
久野 その意味で、映画には出来ないものを放送出来たわけですね、
大山 そうです。「私は貝になりたい」(1958)以降、アクチュアリティーという言葉が妙にはやりました。今でいう現実主義ですね。映画にくらべて、もっと現実に起こった事件、起こりつつある事件、あるいは、人物がもたらした一つの効果、そういうものを取り上げるべきだと。もっとジャーナリスティックじゃなきゃいけないと、僕たちも思い始めていくようになったんです。
映画は娯楽だけれど、テレビは社会性を持ったもので、その時々に起こってくる事件や、現実、われわれ生きている人間を取り囲む状況に対して問題を発見して、それを告発していくっていうのはオーバーだけど。
それまでの初期のテレビドラマは、映画の3分の1ぐらいの長さで、舞台の一幕ものを膨らましたり、そっちの方を一生懸命追いかけていた。
それが、ある時期から「テレビ的であること」の方を重視して、テレビというジャーナリスティックなものの中にドラマも入ってくるんだと考えるようになった。ドラマ部分に力点があったものが、テレビという方に力点が変わっていった。全体としては、そういう流れだった気がしますね。
ただそれも、大衆化時代になって、受像機の台数は1,000万台を超し、カラーにもなってくる※ 、高度成長期になってくる。そういう流れで昭和40年代になると、娯楽を求められるようになる。スポンサーもそれを求める。となればやはり、大勢の人が喜んで見るものが良いんだという方向に移っていきましたけどもね。
※1964年10月、東京オリンピック開催(一部カラー放送)。1965年頃から、カラー番組が増えはじめる。NHKの場合、連続テレビ小説がカラーになったのは1968年「あしたこそ」から。大河ドラマは1969年「天と地と」から。
でも全体としては、テレビというのは社会性の強いメディアだということが出発点だと。もちろん娯楽でもあるけれど、というような意識が若い人たちを中心にあって、それが大衆化の時代にすり替わっていくのが大きな流れじゃないでしょうかね。
ハードな時代劇から組合問題へ
大山 で、僕は39年に「真田幸村」※という作品を演出します。
※ 「真田幸村」1966年10月24日~1967年10月16日。月曜20時~20時56分放送。脚本:松山善三・早坂暁、プロデューサー:久世光彦、演出:大山勝美・橋本信也ほか。出演:中村錦之助、浅丘ルリ子ほか。
この作品は、鳴り物入りでした。「1,000万円ドラマ」っていうんで大騒ぎ。当時1時間ドラマの予算が1,000万円ってのは大変なことで。ま、それだけお金をかけて、NHKの大河に負けないものを作ろうと。
当時は映画全盛期の名残があって、映画スターをテレビに引っ張り込むのが大きな目玉でした。私はそういう映画スターのテレビ初出演に縁がありまして。「真田幸村」でいうと、中村錦之助さん。※
※ 中村錦之助、のちの萬屋錦之介(1932~1997)
「真田幸村」の主役には中村錦之助さんがいいっていうんで、引っ張り出し工作をやって。あと、浅丘ルリ子さん(1940〜)、小林桂樹さん(1923〜2010)、岡田茉莉子さん(1933〜)、田宮二郎さん(1935〜1978)と、そういう連中のテレビ初出演ていうのを、縁あって担当させられました。
「真田幸村」はそういう鳴り物入りでスタートしました。中村錦之助さんに勢いのあった頃で、錦之助さんぐるみのスタッフがいるわけです。殺陣師とか、周りのわき役の人とかね。で、今でいう生田(スタジオ)に、もう今住宅街になってますが、広い所があって、そこで馬を走らせる。
久野 あのロケーションはフィルムだったんですか。
大山 ええ、フィルムもVTRもありました。1回目はVTRでしたね。で、とにかくスケールのあるものをと意識してやったもんですから(時間がかかって)、放送直前までVTRの編集をしていました。プレビューなしで放送っていう、非常に切羽詰った状況で作ってました。
そんな状況なので、珍談奇談がいっぱいありました。たとえば、冬の陣のシーンを夏に撮ったりします。すると季節が真反対で暑いし、撮影がハードなので、だんだん雑兵がいなくなりまして。エキストラの人たちはTBSのリハーサル室で寝ていてもらって、朝バスで生田まで運ぶんですが、だんだん抜け出してしまう。20人から30人バスに乗せたつもりがみんな逃げちゃって。
それで、その日はスケジュールを変えるとか。あとは馬が集まらないとか、それから残業が多くなる。当時は青天井※だったんですよ、給与が。それで組合問題になってきまして。
※ 時間外手当の上限無し の意
青天井じゃ、スタッフの残業が激しいし、会社の方も困る。それで組合とのやり取りで、「何時間まで」と規定が決められていく。
で、これが外部プロダクションを作る流れの発端になっていくんです。つまりストライキなんかやられると、番組に穴が開きかねないっていうんで。それほど一種の人海戦術でやって、結局僕はね、途中で体よく下ろされちゃうんです。52本のうち30本ぐらい撮ったかな。とにかくストライキがあるとスタッフが変わる。で、そのことに対して錦之助さんが「何でスタッフが変わるんだ」と抵抗する。
そんなことがあって、途中で交代して、しばらく干される時代が続いて。で、45年に技術会社の東通※がスタートするんです。
※ 東通は1962年11月設立。1970年12月にプロダクション事業部を設置。
その頃の僕は、テレビドラマの特徴はやっぱり日常性のドラマ化だと、特に後半思うようになってくるんです。それで上の人たちに説明を求められて、若者の生き方と心情を通して、今の日本の状況を逆照射するなんて、そういうつもりで「日常性を追求します」って言ったんですよ。
そしたらある重役が私に「君、ドラマというのは、非日常ではないか。日常を追求するとは何事であるか。それは君、ドラマを分かってないな」つってですね、「日常を描くなんてのは邪道である」と、すごく怒られてですね、そういう時代だったんですよ。
だから、そこはうまくごまかして、その日常性の中にある非日常性とか、分かったような分かんないようなこと言って、とにかく「しょせんはドラマなんです」とか何とか言って、切り抜けたような覚えがあります。
映画にも演劇にもない「捨てカット」
大山 僕は捨てカットといってたけど、カメラが次に撮りたい対象の前まで移動する間に、どうしても、そこへ行く間をつなぐための別のカットを入れなきゃいけないでしょう。これを「捨てカット」と呼んでいたんです。これには非常に苦労してね。どういうカットにするかは演出のポイントになることもありますよね、このカットは省けないわけだから。
でも、そのうち「捨てカットは妙に面白い」と、僕の中でも気づき始めて。そのことが、日常性をそのまま撮っていくという、ドキュメント的なものになっていくわけです。非日常と日常で言うと、選ばれたヒーロー・ヒロイン、美男美女の世にも珍しい物語。それを型として見せるのが、ドラマにおける非日常であると、何となくそういう認識がありました。
「日常性を描くなんて、ドラマじゃないぞ」と言われたのが一般的な常識でしたが、捨てカットこそが意外に面白いと気づき始めて。むしろ、それを生かそうというのが、僕はチャイエフスキー※ の精神だったと思うんです。
※ アメリカの劇作家、脚本家、小説家
だから、捨てカット、本当に余計なものだったり、洗練されてない、そんなのいらないんだよっていうカットが、実は大事だし面白いと。ということは、登場人物の選び方もそうであって、ヒロインよりも、ヒロインのちょっと脇にいる男とか、事件も大したことのない事件。1億円をだまし取る話よりも、10円をくすねる話が実は面白いという、非常に身近にある材料や人物、そういうものを徹底的に追及していく。
それこそが、映画も演劇もなし得なかった一つの表現の世界で、これが実は面白いんじゃないかって、うすうす気づき始めていた頃に、そのチャイエフスキーにぶち当たって「あ!これだ」と思ったんです。山田(太一)さんも、早坂(暁)さんも、倉本(聰)さんも、向田(邦子)さんもそうで。「ああ、そうだ。日常をどんどんどんどん追求していくと、一つの別の面白い世界があるんだ」と。
山田さんが、ある舞台のパンフレットに書いてらっしゃいますけど、チャイエフスキーを読んだ時に興奮して「ああ、こういうことだったんだ。これなんだ」つってね、もう眠れなくてぐるぐるぐるぐる家の周りを歩き回ったんですって。
ものすごくよく分かります、その感じ。「ああ、こういうことだったんだ。テレビには、今までにない何かがあるはずだと思っていたけれど、ここに一つの鉱脈があったんだ」と。チャイエフスキーの、日の当たらない人物に焦点を当てることであり、事件もたいしたことは扱わない、それこそ10円をくすねる話を丁寧にやる。しかも会話は、日常会話を盗み聞きしたような会話。しかし、心理的には深く描く。これをチャイエフスキーが言ってるんだと。こういうことを、僕は山田さんとも、早坂さんとも、倉本さんとも、向田さんとも、何となく話し合ってたような気がするんです。
その意味で、山田さんと組んだ金曜ドラマや、そのあとに続く作品でも、ずっとこの考え方がポイントになっている気がしますね。
富士山を描くときに、見事な頂、鋭い頂を持つきれいな山だというのを、どう立派に描くかが従来のドラマだとすれば、裾野の方の「こんなとこ、ドラマにならんよ」って言われたところを、ほじくってみると意外においしいっていうか、誰も触ってないけど、面白いっていうことに気づいて、それを一生懸命ドラマにし始めた。そのことで、70年代後半にかけて、テレビドラマがバーッと成熟した時期がありましたね。
久野 やっぱり「岸辺のアルバム」(1977)から…
大山 そうですね、それから「夢千代日記」(1981年、NHK)、「北の国から」(連続ドラマとしては1981〜1982、フジテレビ)、それから向田さんの「幸福」、「家族熱」※ というのもやったんだけど、暗黙の中にそういうものが、やっぱりテレビドラマのポイントだっていう気がしてたんですね。
※ 1978年7月7日~10月6日、金曜22時~22時:54分。脚本:向田邦子、制作:大山勝美、鈴木淳生、演出:服部晴治ほか、出演:浅丘ルリ子、三國連太郎、三浦友和ほか。
凡人小事か変人珍事か
僕は鹿児島生まれで満州育ちなもんですから、文化大革命が終わって、ある人に呼ばれて中国の各地、最初は北京・上海でしたけど、回ったんですね。吉田直哉さんとか、志賀信夫さん(1929〜2012)、ABCの山内さん、千葉県の知事になった堂本さん(1932〜)とかとご一緒でした。
その時に向こうは、もうハンディカメラでオールロケでドラマ撮ってるわけですよ。ですから、これはもう映画と全く違わないと。作り方から脚本から。題材も、朝鮮戦争に出征した中国戦士の話とか、何とか賞をもらった人の奥さんの話とか、さっき言った、優れた人や目立つ人、特異な人を描くのがテレビドラマだと思っていて、そればっかり作ってるわけですよ。いや、そこは映画とテレビは違うんだって、僕は一生懸命、向こうの人に説明してたんです、2年ぐらい。
それから5、6年たって、中国ってのは意外に理論派が多くてですね、ロシア映画の論法とか全部知ってるんです。それに対して、チャイエフスキーの、さっき言ったような、映画ってのはこっちから出掛けて見る。まあ、晴れ着みたいなもの。一方テレビは帰って日常の中で見る。見る場所も時間も日常の中。サイズも小さくて、大画面の迫力で訴える力もない。だからやっぱり、クローズアップに近いサイズで人間の心理に深く入った方がいいんだよ、と言ったんです。
その為には大げさな人物の話よか、そんじょそこらにいる人の話。隣のお姉ちゃん、何故中々お嫁に行かないんだろうとか、肉屋のご主人は、どうしていつも日曜日に出掛けるんだろうとか、そういうのを追っかける方がいいんだって話した記憶があるんです。
それからさらに5、6年たって、そうすると向こうでは、テレビドラマの理論書っていうのを作ってましてね、それが「大山センション」っていうんです。「センション」は「先生」っていうことなんだ。「テレビドラマの本質ここにありっていうのを、発見しました」と。で、見たら、なるほど、それは「凡人小事」だと。「平凡」の「凡」。ちっちゃいことの「小事」で「凡人小事」。向こうで何と発音するか分からんけど「これですね」って。「そう!そうなんだよ、凡人小事っていうのは、うまいこと言うね、君たちは」って。
普通の、凡人の、ちっちゃなことがテレビドラマなんだって。「そうなんだ、これがやっぱり映画でもない、舞台でもない、テレビがやるべきことなんだよ」って握手した記憶があるんです。だから、「ふぞろいの林檎たち」※ は、まさに、そこから発想したんですね。
※ 「ふぞろいの林檎たち」原作・脚本:山田太一。パート1は1983年5月~7月、以降パート4まで放送される。
とにかく、今まで日の当たらなかった、いわゆる三流、四流の大学生を描く。人が振り返らない人たち。その人たちを見つめようと。山田(太一)さんは基本的にそういうことをずっとやってらっしゃった。それが、僕たちの先輩を含めて、テレビドラマを作ってきた歴史の中で、70年代から80年代にかけて、そういう考え方が花開いた時期があったんだと思うんです。
従来のドラマは「未知を既知にする」ものでした。つまり知らないものに対して「ああ、こういうことか」って知るということです。一方で、この時期に考えられていたテレビドラマは「既知を未知にする」。つまり、分かってると思っていた、こんなの知ってらい、知ってるよと思ってた世界、すでに既知、すでに知ってる世界が未知に見えてくる。「ああ、こんなことだったのか」って。もう、向田さんなんか、まさにそうだと思うんです。
久野 うーん。
大山 何でもなく思ってた、日常のちょっとした会話なり、行動なり。つまり、トイレに入ろうとすると、女の子が出てきて「すぐ入っちゃ嫌」と言うといったこと※ とかね、それがハッと、新鮮ないい表現になってくるわけです。そういう既知を未知にするのが、テレビドラマの一つの表現の世界だと思っていたんです。
※ 向田邦子は匂いや触覚を大事にした人だった(大山)。
ただ、80年代の後半、90年代からですね、ザッピングというテレビの見方、VTRの普及、それからテレビゲームが入ってきますよね。我々の時代、テレビはオンタイムで見るという意識があったし、テレビ画面はテレビだけのものと思ってたんだけど、全く違うテレビゲームが入ってきたり、それこそ何でも出てきますよね。※
※ 1970年代はじめ、サンヨーが超音波利用のテレビ用リモコンを発売。1975年、ソニーがベータマックス方式の初の家庭用VTR発売。1976年ビクターがVHS方式発売。以後世界に普及。1978年、インベーダーゲーム(ビデオゲーム)大流行。以後テレビゲームが普及。
テレビドラマも、オンタイムで同時進行で見るんじゃなく、VTRに撮って後で見る。そうすると、レンタルビデオ屋に行くといっぱい外国映画もある。だからもう「凡人小事」っていうのは一種の王道に近い本質だと思うんですけど、そっから、もうずいぶん外れてきてましてね。
「変人珍事」って言ってんだけど、つまり変わった人の話。最初に戻ったわけだ。世にも不思議な、あるいは美人の話、すぐれた顔形を持つ人たちの恋愛だとか、凡人小事じゃない変人珍事に近い方に、だんだんスライドしていってる。
日本の社会そのものが激しいテンポで動いてるし、さっきも言ったようにブラウン管の中に出てくる出来事も、どんどん飛び跳ねてるし、とにかく変わったもの、珍しいもの、新しいものをどんどん見せてますね。そして、その流れに追いつこうという形で、テレビドラマも変わってきてるという気がします。サスペンスものの隆盛もそういうことだと思うんです。
PかDか、プロデューサーは総合戦、演出は局地戦
久野 大山さんは、演出をずっとやってらっしゃったし、プロデューサーもおやりになる。そのディレクターとプロデューサーの問題ってのは、どうなの?
大山 どっちが好きかっていえば、もうそりゃ、演出が全然好きですね。演出家として出発し、演出家として認められてスタートしたと思ってます。
だけれど、プロデュースについては、予算も仕組みも大きくなってくると、現場で演技を指導したり、スタッフを引っ張ってったりする、そういう面白さ、表現の面白さとは別に、プロデューサーにはメディアと向き合える面白さがあると思うようになりました。
つまり、ディレクターは、どうしても表現の、現場の面白さっていうんですか。肉体的な接触、演技、映像を含めてクリエイトする面白さがありますよね。
久野 クリエイトという意味では、プロデューサーも同じでしょうけど。
大山 まあ、同じでしょうけど、もうちょっとね。やっぱり演出家は自分の感性、感受性をフル活動させる。一方プロデューサーは、もうすこし、ある種の社会的、経済的なものを含めて、人、金、モノを扱って、総合戦争みたいなことをするわけです。
その意味でいうと演出家は局地戦ですね。それこそ敵の姿を目の前にして戦う。スタッフと俳優組みんなで、ある戦いを実現する臨戦的な面白さがあります。プロデューサーの場合、コンピューターや何かを同時に使いながらの総合戦っていうんですか、そういう面白さがあって。まあ、プランナーとか計画者としての面白さはあると思います。
それと、若い才能を発見していくってのは、これは、演出家もプロデューサーも同じだと思いますけれども。
久野 ジャーナリズムとしての仕事っていう意味では、やっぱりディレクターよりは、プロデューサーの方が。
大山 そうですね。ジャーナリスティックな感覚を企画の中に発見していくというか、埋め込んでいくというか。そういう作業は、やっぱりプロデューサーの方が、まさにメディアと格闘する、勝負するっていうかね、そういう楽しさはあると思います。大変ですけれど。
それとやっぱり、演出家は体力がいります。本当、体力が衰えると、すぐオッケー出したくなるっていうね。そういうことがありますから、やっぱり演出家には若さ、体力が必要なんです。でも楽しさというか、達成感は演出の方がはるかにあります。
久野 それはそうですよね。まあ、お体を大事に。
大山 ありがとうございます。まあ、長年やってるだけの男ですけども、テレビというものの楽しさ、面白さ、可能性を、仲間を含めて自分なりに手応えを感じてきました。まだまだBSとか、チャンネルも増えるわけで。表現の領域が増えていくことはいいことだと思ってます。
久野 どんどん変わりますよ、まだまだ。
大山 そうですね。ありがとうございました。
<本インタビューは、2001年9月19日収録>
大山 勝美氏(おおやま・かつみ)氏の略歴
1932年 鹿児島県生まれ
1957年 早稲田大学法学部卒業後、ラジオ東京入社 1992年 TBSを定年退職、制作会社「カズモ」設立
1994年 紫綬褒章受章
2003年 勲四等旭日小綬章受章
2014年 没
【放送人の会】
一般社団法人「放送人の会」は、NHK、民放、プロダクションなどの枠を超え、番組制作に携わっている人、携わっていた人、放送メディアおよび放送文化に関心をもつ人々が、個人として参加している団体。
「放送人の証言」として先達のインタビューを映像として収録しており、デジタルアーカイブプロジェクトとしての企画を進めている。既に30人の証言をYouTubeにパイロット版としてアップしている。
【調査情報デジタル】
1958年創刊のTBSの情報誌「調査情報」を引き継いだデジタル版Webマガジン(TBSメディア総研発行)。テレビ、メディア等に関する多彩な論考と情報を掲載。原則、毎週土曜日午前中に2本程度の記事を公開・配信している。