「沖縄人はみんなスパイ」なぜ守るはずの日本兵が住民を手にかけたのか【報道特集】

戦時下の沖縄で日本兵からスパイと疑われた少女がいました。スパイとみなされ虐殺された住民もいました。外国の敵から守るはずの日本兵が、なぜ住民たちを手にかけたのか。
【写真を見る】帝国議会での法案の議論では、スパイ、外国人の言葉が飛び交った
「スパイか」少女が浴びた言葉
父を探して沖縄の戦場をさまよった10歳の少女。81年前、玉木利枝子さんが、突然日本兵に浴びせられた言葉がある。
玉木利枝子さん
「お前らは軍隊のことを根掘り葉掘り聞くと。スパイかと。スパイ呼ばわりされる羽目になった」
今も色濃く残る戦場の記憶である。
沖縄が地上戦に向かう最中、玉木さんの家族の暮らしは、約6キロに及んだ宜野湾並松(じのーんなんまち)と呼ばれた松並木沿いにあった。
1945年の年が明け、軍医として召集された父・酒井吟之介さんは、沖縄戦直前、家族との面会に帰ってきた。
玉木利枝子さん
「あの空気感は再現不可能っていうぐらいの重みで私には残っています。父が家族面会で帰ってきたのに部屋に上がることもない。軍靴、革の膝まである靴を履いたまま、濡れ縁に腰を下ろして話をしていたわずかな時間、これが最後の面会なんですね」
別れの時、父に突然、抱き上げられた。
玉木利枝子さん
「抱っこされた手を置いた肩、軍服がごわごわしていた。父は、いつも着物か白衣しか私の印象にはないんですけど、ごわごわ感っていうものは今でもこの手のひらに残っているというか、あれを思い出しただけでも胸が詰まります」
4月、アメリカ軍が上陸すると、「死ぬときでも家族は一緒にいよう」と、祖父は、父を探そうと宣言する。
玉木利枝子さん
「息子を亡くしてたまるか、っていう気持ちが祖父は、自分が守りに行かなきゃいけないっていう、その表現してるわけですね」
日本軍の司令部がある首里を目指し、一家は、松並木を歩き始めた。砲弾の飛び交う夜道を進み、首里の地域に入ると、二人の日本兵に遭遇した。
玉木利枝子さん
「部隊名と野戦病院の在処、ここに司令本部はあるんですかというのも聞いたわけです」
すると、日本兵は。
玉木利枝子さん
「軍隊のことをなぜ根掘り葉掘り聞くか?と。そのあとで吐き捨てるように、スパイか!お前らは」
同時に、一家は銃を向けられた。「スパイか」。そう迫られたのは一度ではなかった。
沖縄戦では、日本軍がスパイと決めつけた住民を虐殺するケースが相次いだ。
那覇市の天久台(あめくだい)。この場所一帯には、日本軍の高射砲陣地があった。
首里城地下にある日本軍司令部へ向けて侵攻するアメリカ軍の攻撃からの防衛拠点だ。
ここでスパイ容疑をかけられた大城政英さんの証言が残っている。
大城さんが、親類を避難させる壕を探しているときのこと。ある壕の入り口を開けると、日本兵に、誰だ、と詰問された。
大城政英さん
「避難民です、そう言うたらね、“なに!避難民か、動いたら撃つぞ”と。こっちは何もやましいことはないからね、座っておったら、3、4名出てきて、上半身を裸にされて、“君はスパイだ”、電話線で後ろ手に縛られて。ひとりは軍曹か曹長だったけどね、軍刀を抜刀して、兵隊は着剣してね、構えてるわけですよ」
何を言っても取り合わない日本兵を前に、大城さんは、殺されることを覚悟した。そして、あまりの悔しさで問いかけた。
大城政英さん
「どうして沖縄人をね、あんたがたはスパイ、スパイと言って殺すか?“沖縄人はみんなスパイだから殺せという命令が出てるんだよ、上から命令が出ているんだ”と」
その後、身元を保証してくれる人物が現れ、大城さんはかろうじて命拾いした。だが、別に捕らわれた住民が殺される現場を目撃した。
大城政英さん
「壕の外に連れ出してね、やられるのを自分も見たんですよ。拳銃で押してね、一発すぐバーンと拳銃でやりおったですね」
住民虐殺の根幹にあった軍機保護法
この証言を44年前に聞き取った沖縄国際大学名誉教授・石原昌家さん。証言をもとに続ける研究でたどり着いた、住民虐殺の根幹にあったものを指摘する。
沖縄国際大学名誉教授 石原昌家さん
「住民虐殺の元凶は『軍機保護法』ですよね。これが沖縄戦における住民被害の最大の特徴になるわけです」
軍事上の秘密を守ることを目的とした軍機保護法。1937年、日中戦争の只中に全面的に改められ、秘密の範囲を拡大し、漏洩した場合の最高刑は死刑と厳罰化。内閣情報局が統制を一元的に担った。
自らも体験した沖縄戦とともに、軍機保護法と社会のありようを研究してきた山梨学院大学名誉教授・我部政男さんは、国家が目指したことをこう指摘する。
山梨学院大学名誉教授 我部政男さん
「人間の内面をコントロールできるような方向に持って行くことによって、戦争に反対するような勢力が国内に皆無の状態を作りたい。これが一つの体制として固まっていたのが軍機保護法に期待したところではないかと」
「スパイ」を生んだ国民総監視の空気
帝国議会での法案の議論では、スパイ、外国人の言葉が飛び交った。
貴族院軍機保護法改正法律案特別委員会 (1937年3月3日)
「数年の後には『オリンピック』も東京に開催せられるような状況でありますから、大勢の外国人が参りましょうし、スパイ行為をするというような者も考えられますから」
山梨学院大学名誉教授 我部政男さん
「外国人は、日本の利益を損なう集団として、日本人が即座に理解できる領域なんですね。外国人が本当にスパイであるかどうかは関係ないんですよ。法律が必要だということを国民に知らせるためには、餌をあげないといかん。この餌になるようなものが外国人に対する差別意識なんですね」
議論は、日本人同士の監視に及んだ。
衆議院防空法案委員会(1937年3月28日)
「国民全部を挙げて『スパイ』の逮捕、密告に就くべきものではないか。密告し、通知をいたした場合、表彰するか、賞品を呈するとか、国家が奨励いたして、国民全部を挙げてこれを防ぐ、という態度に出る意思はないか」
山梨学院大学名誉教授 我部政男さん
「そういう雰囲気を作る。ここの中にスパイがいる、彼かもしれないというような疑心暗鬼という状況は人間社会の中でコントロールしやすい。そういう状況を作ることが機密保護法の重要なテーマであって。それは一つの統治の方針なんですよ。それはムードだから、雰囲気作りだから」
映画「武器なき敵」(1940年製作)
「我が国に向けられたスパイの目は、スパイの耳は、スパイの手は。軍事上の秘密が彼らスパイの手に渡った場合、国家の被る損害は、その犯人を処罰することによって、決して償いうるものではありません」
開戦の年には、「国防保安法」が成立した。軍事だけでなく外交、経済など、国家機密全般に対象を広げ、軍機保護法とともに、情報統制の両輪となった。
時を合わせ、政府の広報誌は、「秘密戦と防諜」と題して特集を組んだ。
スパイを防止し、秘密を守る「防諜」。「一人一人が防諜戦士」を合言葉に、外国依存や欧米崇拝から脱却すること、最大の弱点は防諜観念が希薄であることなどを挙げながら、防諜とは「真の日本人になること」と結んだ。
そして、太平洋戦争に突入した。
「あれはスパイだよ」沖縄でも広がる防諜思想
1942年7月には2回目の防諜週間。「戦時国民防諜強化運動」と銘打って、全国一斉に展開した。新聞には連日、「スパイ」「防諜」「秘密戦」の文字があふれた。
沖縄にも防諜思想が浸透していった。
新聞の「防諜座談会」では、「本県は種々のデマが伝播する点、他県より多い」と、全く根拠のない話を印象付けた上で、「秘密を知りたがらない、知ってもしゃべらない、流言飛語を飛ばさない」といった内容が話された。
沖縄戦に動員された元学徒、瀬名波榮喜さんが当時の空気を語った。
瀬名波榮喜さん
「憲兵や高等警察ができて、一般の人々もビクビクしていた。疑心暗鬼。知らない人が来ると、こいつスパイじゃないのかなと思う。手品のグループが田舎に来た。『あれはスパイだよ』という話が出た。風変りなことをすると、『これはスパイじゃないか』と思われてしまう」
友人との会話で、自らも洗脳されていたことを思い出す。
瀬名波榮喜さん
「日本勝てると思うか、負けると思うかと質問を彼から受けた。『もちろん勝つよ』と私は言った。彼は『僕は負けると思う』と言った。『あんたそんなこと言ったらスパイ扱いされて大変なことになるよ』と。(スパイと)非国民という言葉とは、同義語に使われていた」
その沖縄への軍隊の配備は、差別意識を前提に始まっていた。
陸軍の秘密文書をつづった「密大日記」。この中に、沖縄戦の10年以上前に記された沖縄防備対策がある。
住民について、「依頼心が甚だしく強く、惰弱で、団結、犠牲の美風に乏しい」などと断じている。だが、少数軍隊を補うため、その住民を戦力化することを計画した。
第32軍は部隊が配備されると、民家を兵舎として利用し、住民を陣地づくりなどに動員した。
沖縄国際大学名誉教授 石原昌家さん
「第32軍の部隊がどどっと各家々に配備される状態になって、戦場の村になっていく。いきなり信用していない沖縄の一般住民家庭が軍事要塞化する形になる。部隊の動きは、最高の軍事機密なんですね。住民が兵士同様に一体となって(軍事機密を)知ってしまう。そこから沖縄戦というのは始まっていく」
その矛盾は極まる一方だった。
着任した牛島司令官の訓示は、「地方官民が喜んで軍の作戦に寄与するよう指導すべし」とする一方で、「防諜への注意」を強調していた。
そして、主力部隊の通達で、「沖縄は『デマ』が多い土地で、軍機保護法による特殊地域に指定されている、防諜上きわめて警戒を要する地域」と断じた。
沖縄国際大学名誉教授 石原昌家さん
「第32軍の展開地域は全部、軍機保護法の特殊指定地域だと。その中における日本軍の虐殺事件というのは、軍機保護法に則った行為として全然反省しない、と開き直っているわけです」
さらに、この秘密戦に関する書類には、「国頭支隊」という北部の部隊が、住民を防諜に利用した痕跡が残っている。
地域の有力者を使って極秘の組織「国士隊」を結成、一般民衆への「防諜の指導」や「監視の役割」を負わせ、反軍、反体制的な人物はいないか、など報告を命じ、密告社会を作り上げていた。
日本軍のスパイ視 住民虐殺も…
その先にあったのが、スパイ視による住民虐殺だ。
国頭村で生まれ育った上原一夫さん。地域で語ることがタブーとされてきた事件の現場に案内してくれた。
そこは、ザークビー(座峠)と呼ばれ、かつて住民にとって憩いの場所だった。ここから100メートルほど先の民家に身を寄せていた避難民がいた。
避難民はアメリカ軍が上陸した読谷村から、上原さんの父を頼って疎開していたが、彼らがスパイだという情報が、地元住民によってもたらされた。
上原一夫さん
「この人(地元住民)が、日本兵に“スパイがいる”とうそを言ってつないだ。スパイでもないのに。密告。そうしたら、日本兵が来て、松の木に(避難民を)下げて、日本刀でメッタ斬りして5、6名殺した」
当時、地元住民や疎開してきた人々も山の中に大勢避難していた。
日本軍がアメリカ軍への投降を禁じていた中、山を下りたことがアメリカ軍に協力しているスパイとみられたという。
上原一夫さん
「“スパイが向こうに下りてきているよ”と言って、日本兵は、確認もせずすぐ殺して。“なんで人をこんなして、命を大切にして、避難しに来た人を殺すか”と、母と親父は“絶対許せない”と言って」
相次いだ日本軍の住民へのスパイ視について、陸上自衛隊幹部学校の資料で、戦後、沖縄を調査に訪れた元陸軍参謀が、こう結論していた。
「住民で軍の活動範囲内で敵に通じたものは皆無と断じて差し支えない」
「罪のない住民をあらぬ誤解、誤った威信確保等のため『スパイ』視して射殺する等の蛮行を敢へてし、これが精鋭無比の皇軍のなれの果てかと思はせる程の事例を残している」
防諜政策の帰結としての沖縄戦の数々の事実。
そこに現れたのは、戦闘によるものだけではなく、日本軍によって住民が虐殺されるという異常な死だった。
山梨学院大学名誉教授 我部政男さん
「最終段階でいろんな事件が起こりますが、日本の国家が仕向けてきた方向の最終的な結論として起こっているものであって、日本国家そのものが推進した、結論なんですね。日本国家そのものが目指したもののね」
それから81年、情報戦略の司令塔を担う「国家情報会議設置法」が成立した。
政府は、7月にも各省庁の情報を一元的に集約・分析する実務機関「国家情報局」を立ち上げ、その先にスパイ防止関連法制の制定を目指す。
我部さんは、歴史の事実を指摘する。
山梨学院大学名誉教授 我部政男さん
「戦争するときに政府内部の意見が分裂しては戦争できない。それを統合するために情報局を作った。要するに独裁政治の始まりなんですよ。意見がバラバラでは戦争できない。戦争するための方法が内閣における情報のコントロール、単一化なんです」
この国には、戦前、「軍機保護法」「国防保安法」と「内閣情報局」によって国家が国民を統制した歴史がある。
山梨学院大学名誉教授 我部政男さん
「戦前期の研究をじっくり固めておかないと、戦後この80年の経過の中でちょっと忘れかけてしまってるところが多いんじゃないのかな」
戦前の国防保安法についての陸軍の説明には、こんな一節がある。
「一個人の生命よりも国家の生命を重しと見る考を強調するものであります」
10歳の少女が見た国の姿
軍医の父を探しに家族で戦場に出た玉木利枝子さんは、その記憶を次の世代に語り継いでいる。
家族が一人ずつ命を落としていくきっかけは、避難していた壕を軍に追い出されたことだった。
玉木利枝子さん
「この壕は、これから軍隊が使用する。住民は、日暮れとともに出るようにと言うんです。『いや、ここは私たちのガマです。私たちの隠れ場です』と断った人が一人もいない。国や軍隊に反論のできない、モノ言うことが出来ない国であったということも覚えておいてください」
壕を出ることになり、これ以上、戦場を歩けないと悟った母方の祖母が、突然自死した。その後、兄や祖父たちも次々と倒れ、10歳の少女は、最後はたった一人でさまよい歩くことになった。
その半世紀後に建った平和の礎。24万の生きた証の中に戦場で別れた家族の名前がある。
玉木利枝子さん
「おばあちゃん、おじいちゃん、おじ、父の弟、こどもたち。向かい合うということが本当に奇跡、びっくりしました」
そして、その祖父たちと向かい合うように、刻まれている名前がある。父と兄だ。
玉木利枝子さん
「これだけの中で、偶然に向かい合っているということが、本当に考えていなくて、あれだけ探し回った、やっとこういうふうに会えたという証を作ってるのかなと思いました」