![亡き娘の小学校はあの日のまま…震災から13年越しのホワイトデー「渡せてよかったね、ほんとうに。」【つなぐ、つながる】](/assets/out/images/jnn/1045049.jpg)
あの日のまま、時を刻む、福島県大熊町の帰還困難区域。木村紀夫さんは震災の教訓を伝える語り部だ。
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「あの建物がああなってしまうような津波がここを襲ったということですよね」
この日は、広島や沖縄で伝承活動に取り組む人たちや、小学校の教師らが参加。13年経った今も、原発事故で立ち入り制限が続くこの場所を、被災体験を交えて案内している。
自宅は福島第一原発から約3キロ。家は津波で流された。
母親と長女は無事だったが、自宅にいた父親と妻、次女の3人が、津波にのまれた。翌日、原発事故で、住民に避難指示が出される。捜索していた警察や消防も全員が退避。木村さんは、苦渋の決断を迫られた。
木村さんガイド
「冷たいと思われるかもしれないけどその時コロッと意識が変わっちゃったんですよ。長女を何とかしなければならない。躊躇なかったですね」
行方不明の3人をおいて、避難せざるを得なかった。震災から1か月が過ぎ、妻と父親は遺体で発見。しかし、次女の汐凪さんは、行方不明のままだった。
木村さんは避難先の長野県から、毎月、車で6時間かけて大熊町へ。立ち入れる時間や日数に制限があり、重機も持ち込めないなか、ボランティアの協力で捜索を続ける。
少しずつ遺品が見つかり、近くの寺に保管。その一つ一つが、家族との日々を思い出させてくれた。
木村さんインタビュー
「走るのも早いし、一番思い出に残ってるのは幼稚園の時の年長さんの時のクラス対抗のリレーなんですけど、そのリレーでもし負けてて前のランナー抜いたら何かやるからって話したら、その通りやってくれて。一番最後親子でお遊戯みたいのするんだけど、最後高い高いみたいにするときにめい一杯放り投げてやりました」
汐凪さんが寂しくないように。自宅の裏山に、家族の慰霊碑と一緒に、お地蔵さんを建てた。
汐凪さんの遺骨が見つかったのは、震災から5年9か月も経ってからだった。
「家族とつながれるこの場所を守りたい」
マフラーについていた首の骨と、あごの骨の一部。発見場所は、自宅からわずか200メートルだった。
木村さんインタビュー
「うちの父親もおそらく近くにいたと思うんだけど、12日の避難になるぎりぎりまで捜索してた消防団の何人かが声を聞いてるんですね。だから下手すると、父親はもしかすると生きていた可能性がある。てことになると汐凪ももしかしたらっていう思いが、見つかったことによって消えなくなっちゃったんですよ。あの事故にあって、助かる命が奪われてしまったっていう可能性もあるし」
救えたかもしれない、いのち。
自宅周辺は、中間貯蔵施設の敷地になっている。県内の除染作業で出た放射性物質を含む土や廃棄物を2045年まで保管。敷地は東京都の渋谷区とほぼ同じ広さだ。
国は、住民から土地の買い取りや借り上げを進めていたが、木村さんは、同じ地区で、ただ一人、応じていない。
「家族とつながれるこの場所を守りたい」
春には、菜の花を咲かせた。
木村さんインタビュー
「汐凪に『ここを忘れないで』って言われているような気もするしね。変な言い方かもしれないけどここでこう汐凪と遊んでいるような気持ちでこういうことやっているんで。って言いながらつらくなるけどね」
2月、汐凪さんが通っていた小学校が、13年ぶりに開放されることになった。当時の在校生が、私物を持ち帰るためだ。
「汐凪ちゃんにあげてください」13年ごしのホワイト・デー
汐凪さんがいた1年2組の教室は、あの日のまま。木村さんは、長女の舞雪さんと訪れた。汐凪さんの私物の確認などで、これまでも立ち入っているが、初めて見るものもあった。
同級生の保護者
「失礼します…」
汐凪さんの同級生や保護者とも再会した。一つ前の席だった川木陸真さん。
陸真さんインタビュー
「いつの間にかお葬式行くって話なって。まだ実感がわかないですね。よく女の子のグループで遊んでるのみてたり、明るい子だったと。バレンタインデーに、みんなにチョコ配ったりして」
陸真さんの母親
「優しい子だったよね」
陸真さん
「汐凪ちゃんにあげてください」
陸真さんの母親
「13年心に残っていて、渡せてよかったよね。ほんとに」
あの年、渡せなかった、チョコレートのお返し。13年ごしのホワイト・デー。
木村さん
「.....うん。そろそろ時間が無いので」
「汐凪ちゃんと一緒のままで」
同級生たちは、私物を持ち出さなかった。