岩手県・釜石市。
【写真を見る】釜石とガザ13年の絆 被災地から戦地へ“恩返し”「ガザのみんなを忘れていないよ」【つなぐ、つながる】
ホランキャスターが出会ったのは佐々木千夏さん。あの日、この坂を走って避難した。
ホランキャスター
「どんな思いでここの坂を登っていらっしゃったんでしょうか?」
佐々木さん
「私、喘息持ちだったので、もうこの坂の下ぐらいで息上がちゃって、ぜぇぜぇしてきたんです。もし津波が来ててっぺんまで行けなかったら、死んじゃうのかなって思いました」
津波で甚大な被害を受けた釜石市。佐々木さんの自宅や家族は無事だったが、故郷の風景は一変した。
その翌年から、意外な場所で応援の凧が上がった。
パレスチナ自治区ガザ。「遠く離れていても空は繋がっている」。被災地に想いを寄せ、子どもたちが凧をあげたのだ。
戦闘が繰り返されてきたガザ。人々の自由は制限され、「天井のない監獄」と呼ばれてきた。
そんな状況でも心を寄せてくれたお礼にと、2015年には釜石で凧揚げが行われ、ガザの中学生らが招待された。以来、二つの地域の交流は続いている。
釜石案内の人
「これ、大きな石なんですけど、これが流されて」
ガザの中学生たちは、津波の映像を初めて目の当たりにした。涙を流したのは、当時13歳だったガイダさん。
ガイダさん
「津波で親戚や友達を亡くした人の気持ちがよく分かります。私も、戦争で友達や親戚を亡くしました」
発信を続けるのは「忘れられること」の苦しみが分かるから
実は佐々木さん、そのときの凧あげに参加していた。
佐々木さんは震災で自分の故郷が破壊された経験から、海外で似た境遇にいる人たちの話を聞きたいと、シリア難民のキャンプや、ヨルダン川西岸地区を訪問。その体験を、様々な場で発信している。
佐々木さん
「私が中東に行った時も津波の話をすると、涙を浮かべて聞いてくれるんですよね。すごく心配してくれて、『3.11の時はあなたの家族は大丈夫だったの?』と」
現在、東京で働く佐々木さん。発信を続けるのは、「忘れられること」の苦しみが
分かるからだという。
佐々木さん
「今まで社会人になってからずっと仕事だったんですけど、3.11は電車に乗ると涙が出るんですよ。皆が当たり前に電車に乗ってスマホいじって、何の気なしに生活していること自体が、自分だけが取り残されて別の国に放り込まれた気持ち」
ホランキャスター
「思いを寄せるっていうことも、人が少なくなっているなっていうところに、孤独に感じるっていうことなんでしょうか?」
佐々木さん
「そうですね。世界中でこうやって、災害とか戦争とかで苦しんでいる人たちも、こういう気持ちなんだろうなって」
「ガザのみんなに知ってほしい、私たちは決して一人ではないと」
「ガザのみんなのことを忘れてはいないよ」。そんな思いを込めて、今年1月にも、釜石では凧揚げが行われた。
野呂文香さん。今年はじめて、主催者の1人に加わった。
野呂さん
「少しでも、釜石の人たちがガザの平和を願っていることを思い出してくれたら嬉しいなと」
去年はじまった大規模な戦闘で、多くの市民が犠牲になり続けているガザ。凧揚げが行われていた広場は仮設テントで覆われ、避難した人たちで溢れていた。
2015年に釜石に来たガイダさんは、いまどうしているのか。エジプトに留学中だという彼女と、オンラインで繋ぐことになった。いまガザはどんな状況なのか。
ガイダさん
「ガザに安全な場所はありません。ネットが遮断されて、家族とも数日間連絡がとれず、無事かどうかも分かりません。
私はガザで友達を亡くしました。その知らせを聞いたとき、胸が張り裂けそうでした」
野呂さん
「この凧は、先月の1月に揚げた凧です。どうか日本で応援している人たちを忘れないでほしいっていう思いをこめて、『繋がり』っていう漢字を書きました」
ガイダさんに、1月の凧揚げの映像を見てもらった。
ガイダさん
「自分たちのことを想ってくれる人たちが、こんなにも大勢いるんだと、ガザのみんなに知ってほしいです。私たちは、決して一人ではないと」
ホランキャスター
「メッセージを大空に掲げて空をバックに見てると、直接相手は見えなくてもこの思いが届けばいいなとか、どこにでも飛んでいきそうだなとか、そういう思いになる皆さんの気持ちがすごくよくわかりました」
野呂さん
「悲しいなとか大丈夫かなとか、ガザの子供たちに伝えることはできなくて。でも、凧揚げを通していろんなことを伝えられたかもしれないなって」