![「同志社は阪大や京大には敵わない、だからこそ…」母校愛あふれる教授がたどり着いた、命を救うかもしれない“世界初の発見”【DIG School】](/assets/out/images/jnn/1081230.jpg)
「同志社は、阪大や京大には敵わない。だからこそ、同志社がいいんです」。卒業生の母校愛や郷土愛から、各校の魅力を深掘りする企画『DIG School』。今回は京都・同志社大学の出身で、現在も母校の教授として研究の第一線を走り続ける北岸宏亮さん(45)を取材した。大学入学後すぐに授業についていけなかったという北岸さんは今、多くの命を救うかもしれない“世界初の発見”をした。
【写真をみる】同志社大学出身、現在も母校の教授として研究の第一線を走り続ける北岸宏亮さんや、生涯の恩師となる元教授の加納航治さんなど
衝撃を受けた「有機化学」の講義 恩師との出会い
北岸さんは高2で勉強に目覚め、親戚のお兄さんが通っていた憧れの同志社大を目指したという。
1997年、同志社大工学部に合格。化学が好きで機能分子工学科(現・理工学部機能分子・生命化学科)を選んだ。
入学するとバスケットボールのサークル活動や居酒屋でのバイトなど、大学生活を楽しんでいたが、学業についていけずスランプになった。
「48単位中、34単位しか取れなくて、やばいと思った。周りはみんな、京大を目指していたとか、仮面浪人とか、めっちゃ賢いんですよね。もうアカン、留年するかも、とか思っていて…」
入学早々、挫折を味わった北岸さんが、後に世界初の発見をする研究者になれたきっかけは、生涯の恩師となる元教授の加納航治さん(80)との出会いだった。
衝撃を受けたのは、大学3回生で履修した有機化学の授業。
それまで「有機化学は暗記科目」だと思っていたが、加納さんに“化学の仕組み”や“ルール”を教えてもらってから、数珠繋ぎに理解できるように。分からないことがどんどん分かるようになる面白さにハマり、加納さんの研究室(加納研)に進んだ。
当時、学内には、大阪大学や京都大学に落ちて「自分はこんなところにいるべきじゃない」と現状を引け目に感じる学生もいたという。それは教員も同じで、国立大でポジションを得られず同志社大に所属し、研究を真剣に行わず、“くさった”教授も目立っていたそうだ。
しかし、加納さんは「研究はシチュエーションじゃない。能力で一流の成果が出せる」と身をもって教えてくれた。
難関国立大学よりスタッフも少ない中で、博士課程の学生らと一緒に試行錯誤しながら、周りに流されず結果を積み上げていく、そんな「加納研」の姿がかっこよくみえたという。
「実験の何が面白かったかっていうと、一生懸命やっても、うまくいかないことですよね。夢中になりました。朝から晩までやってやって、その隣で、僕の先輩とかは難なく研究をどんどん進めるわけですよね。そんなに能力の高い人たちが一生懸命やってる世界なんだと。のめり込みました」
同志社大を卒業後、他の大学で研究を続けていた北岸さんを母校に誘ったのは、加納さんだった。そして、恩師から受け継いだ研究室で、北岸さんは救命救急を大きく進歩させるかもしれない“ある物質”を発見した。
「hemoCD」。それは将来、一酸化炭素中毒の治療薬になるかもしれない物質だ。
治療薬が存在しない 短時間で命を奪う一酸化炭素中毒
建物火災による死因で、最も多いのは一酸化炭素中毒(約37%)だ。これは火傷(約35%)よりも多い。高い炎が上がらない煙だけの火事でも、一酸化炭素濃度が高いと数分から数十分の短時間で命が奪われることがある。そして現在の医療では、治療薬がない。
北岸さんらは「hemoCD」の“ある特徴”をいかして、一酸化炭素中毒の治療に役立てないかと実験・開発を進めている。
「通常、血液中では、ヘモグロビンが酸素を体中に運んでいますが、一酸化炭素は、酸素よりヘモグロビンと結びつきやすいため、一酸化炭素中毒になれば、酸素を体に運べなくなり、最悪死に至ります。そこで、一酸化炭素と非常に結びつきやすい性質がある『hemoCD』を使えば、体内の一酸化炭素と結びついて、尿として体外に排出されるのではないか、というのです」
「(hemoCDには)一酸化炭素やシアンガスといった、いわゆる『毒ガスを強く吸着する性質』があります。体内に入れると、毒ガス成分を吸着して全ておしっこに出してくれるという性質があって、火災(の際の)ガス中毒の解毒剤として使えると考えてます」
これらの「hemoCD」の効果は、実験で実証された。
実験では、一酸化炭素などの中毒状態になったマウスに「hemoCD」を注射したところ、最初は動くこともできず、ぐったりとしていた状態のマウスが、約30分後に動き始める様子が確認できた。
さらに約2時間後、マウスの尿から、注射したものと同量の「hemoCD」が全て排出され、体内に薬品が残らないことも実証された。
北岸さんの成果が知られるようになると、中国の研究施設からスカウトがあったそうだ。
しかし、恩師から引き継いだ研究室で働くことは「父親に認められる感覚に近い」と、同志社大で研究を続ける道を選んだという。
寒梅と八重桜 2人の恩師が見守る小路
北岸さんをここまでひきつける同志社大とはどのような学校なのだろうか。
同志社大は、1875年に同志社英学校として設立。創設者の新島襄は、21歳でアメリカに渡り、日本のはるか先をいく近代化に感銘を受け、日本にも私立大学をつくろうと奔走した。
現在は約2万8000人の学生が在籍、2025年には創立150周年を迎える。
「寒梅は風や雪にも負けません」
新島が好きだった「寒梅」。暖かい季節でなく、寒い中であえて咲こうとする“梅の心意気“が、新島の思いと共鳴したからと言われている。
北岸さんの研究拠点「京田辺キャンパス」(京都府京田辺市)には、新島が好きだった寒梅の木と、新島の妻・八重さんにちなんだ「八重桜」の木が、向かい合うように植えられている小路がある。かつてこの寒梅の木を植えたのは、恩師の加納さんだった。
北岸さんは「毎日、ここを通ると新島先生だけでなく、加納先生にもしっかりやってるか、とみられているような気がして、気が引き締まるんです」という。
「たぶん新島先生は、いろんな人に良いことしか言わない人だったと思うんです。必死になってね、お金を集めて大学を立てたいって夢があったんで、なりふり構わずだったと思うんです。僕にも、そういうところがあるかなと思うし、無意識に(良いことを)言ってるのかもしれません。学生にも厳しくしようと思いつつ、厳しくやりきれないところもあります。加納先生もそうでしたね。厳しいですけれども、最後は甘いみたいな…。そういう大学ですよね」
同志社大は自由 いろんな考えやペースを許容する大学
北岸さんは同志社大の魅力を「自由で、いろんな考えやペースを許容する風土」だと話す。
「縛られてないし、自由な大学だと思います。良くも悪くもですね(笑)。同志社生はこうあるべしみたいなことをやりすぎると、僕もあまり好きになれなかったかもしれない。ある意味、新島襄的な平和主義が自由度を残していて、教員にもそういう雰囲気が伝わってるのかなと思います」
大学生活は、最後の学生生活。将来への不安も抱きながら通っている学生は、まるで過去の自分を見ているかのようで、ひときわ愛着の沸く存在だそうだ。
“父親のような師から引き継いだものを、今度は、わが子のような学生に引き継ぐ番”。そんなことを思いながら、北岸さんは、きょうも白衣をまとう。