戦争の記憶を未来へ、「NO WARプロジェクト つなぐ、つながる」です。旧樺太、そしてウクライナで2度の戦争を経験した男性がこの夏、両親のふるさと=長野県を訪れました。帰国を願って亡くなった両親の足跡をたどりました。
今月初め、北海道から長野県を訪ねた男性がいます。降籏英捷さん(80)。
降籏英捷さん
「(お元気ですか?)とても元気です」
話しているのはロシア語です。
訪れたのは、父と母のふるさと・安曇野市。親戚と出会うのは、80年の人生で初めてのことです。
一家は灯台守だった父・利勝さんの仕事のため、戦争が始まってまもない1942年に樺太へと移住。しかし、日本の敗戦間際の1945年8月にソ連が侵攻し、戦後の混乱の中で現地に取り残されました。
一家でサハリンに残留 降籏英捷さん
「母は日本に帰りたがっていました。よく手紙を書いていたことを覚えています」
東西冷戦が帰国を阻み、行き来ができるまで半世紀を要しました。父・利勝さんは1978年に亡くなり、母のようさんも故郷に戻る夢は叶いませんでした。
両親のルーツを訪ねる旅に同行した妹のレイ子さんなどきょうだい5人は、1999年以降に日本に永住帰国。一方、降籏さんは若いころ、妻の故郷・ウクライナに移住していました。
妻は5年前に亡くなり、孫やひ孫と穏やか生活を送る中、おととし2月にロシアがウクライナに侵攻。降籏さんはきょうだいがいる北海道に避難し、その後、永住帰国しました。
2度の戦争に翻弄されながら、ようやく訪れることができた父と母のふるさと。思いがけない発見もありました。
降籏さんのいとこ 大倉和江さん
「手紙あった?」
いとこの家で見つかったのは、両親がきょうだいに宛てた手紙です。
両親が出した手紙(1957年11月)
「便りが最高の喜びです。子どもまで日本から手紙が来たと言って躍り上がって喜んだものです。いずれ日本に帰れる日を待って、いの一番、皆さんとお会いすることを楽しみにしています」
降籏英捷さん
「子どものころは手紙の内容に興味がなかったので、今回、両親の思いを知れて、うれしかったです。今後も、いとこや親戚と連絡をとりたいです」
79年の時を越えて、一つのつながりを取り戻した降籏さん。いまはウクライナで続く戦争と分断が少しでも早く終わることを願っています。