2つの意味で使用される言葉、それが「河童の川流れ」です。
しかし、そもそも「河童の川流れ」とはどのような状況を意味する言葉なのでしょうか。
この記事では「河童の川流れ」がどのような言葉なのかを類義語・対義語と合わせて解説します。
「河童の川流れ」の意味
ここでは「河童の川流れ」の2つの意味を解説します。
意味①達人の失敗
「河童の川流れ」は達人でも失敗するという意味を持つ言葉です。
その道の名人でも時には失敗するということの例えとしても使用されます。
現に泳ぎのうまい河童でも水に押し流されることはあります。
古くから河童は泳ぎの名人として知られていますが、時には川の流れに押し流されてしまうこともあるわけです。
そういった達人の失敗を表現するのが「河童の川流れ」です。
意味②慢心への戒め
「河童の川流れ」は慢心への戒めとしても使用されます。
ある道に精通するとつい得意が過ぎて油断することもあるはずです。
しかし、それが結果として油断を招き、失敗につながってしまうわけです。
河童も泳ぎがうまいとされるものの、足をすくわれないよう気を引き締めて泳がねばなりません。
そういった慢心への戒めとしても使用されるのが「河童の川流れ」です。
「河童の川流れ」の類義語
ここでは「河童の川流れ」の類義語を紹介します。
弘法にも筆の誤り
「弘法にも筆の誤り」は、その道の名人と称される人であっても失敗することがあるという意味の言葉です。
この言葉は書に優れている弘法大師であっても字を間違えることはあるということを表現した言葉となっています。
転じて、どのような達人も時には失敗することがあることを表現するようになったとされています。
その点が「河童の川流れ」と同じといえるのではないでしょうか。
猿も木から落ちる
「猿も木から落ちる」も、その道の名人と称される人であっても失敗することはあるという意味の言葉となります。
この言葉には木登りができる猿であっても木から落ちることがあるということを表現した言葉となっています。
加えて、得意を鼻にかけて油断していると失敗するという戒めでもあるのが特徴です。
その点が「河童の川流れ」に通ずるといえるでしょう。
千慮の一失
「千慮の一失」は、十分に考えて準備していたとしても思わぬ手抜かりがあるということを表現した慣用句です。
「千慮」はあらゆる場面を想定して配慮することを意味します。
「一失」は1回の過ちを意味します。
つまり、どれほど深く考えていたとしても一度はミスするものだということを表現した言葉となるわけです。
その点が「河童の川流れ」にも似ているのではないでしょうか。
「河童の川流れ」の対義語
ここでは「河童の川流れ」の対義語を紹介します。
千慮一得
「千慮一得」は、愚かな者でも1,000の中に1つくらいは優れた考えがあるだろうという意味の言葉となります。
「千慮」は十分に考えることを意味する言葉です。
「一得」は取り柄が1つはあることを意味する言葉です。
つまり、愚かな人であっても考えを張り巡らせれば1つくらい取り柄があるものだということを表現した言葉となります。
その点が「河童の川流れ」に反するといえるでしょう。
まとめ
「河童の川流れ」は2つの意味で使用されることわざです。
1つ目が達人の失敗という意味、2つ目が慢心への戒めという意味。
どちらも泳ぎの名手である河童であっても川の勢いによっては流されてしまうことがあるということを意味します。
転じて、どれほどの名人でも失敗することがあることを意味します。
他にも、油断しないよう戒めるべきであるという意味でも使用されるのが特徴です。
現代ではどちらの意味でも使用されるため、両方合わせて覚えておきましょう。
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