苦痛も過ぎ去ってしまえば忘れてしまうことを意味することわざ、それが「喉元過ぎれば熱さを忘れる」です。
しかし、具体的にこの言葉は何を意味するのでしょうか?
今回は「喉元過ぎれば熱さを忘れる」がどのような言葉なのかを解説します。
「喉元過ぎれば熱さを忘れる」とは
ここでは「喉元過ぎれば熱さを忘れる」の意味を解説します。
意味①苦労自体を忘れてしまう
「喉元過ぎれば熱さを忘れる」は、どれほどの苦痛も過ぎ去ってしまえばその苦しみや痛みを忘れてしまうものだということわざです。
苦痛というのはその瞬間は耐え難いものに感じるものです。
しかし、いざ過ぎ去ってしまえばその苦痛も忘れてしまいます。
「喉元過ぎれば熱さを忘れる」はそういった苦痛からの開放という意味を持つことわざなのです。
意味②苦労した際の恩人を忘れてしまう
「喉元過ぎれば熱さを忘れる」には、苦労しているときに助けてもらっても楽になってしまえばその恩人を忘れてしまうものだという意味もあります。
苦労しているときに助けてくれた人には一層の恩義を感じるものです。
しかし、人は一度楽になってしまえばその恩義も忘れてしまいます。
「喉元過ぎれば熱さを忘れる」はそういった恩義の失念という意味も含むことわざとなっています。
「喉元過ぎれば熱さを忘れる」の類義語
ここからは「喉元過ぎれば熱さを忘れる」の類義語を紹介します。
雨晴れて笠を忘る
「雨晴れて笠を忘る」は、困難が去ってしまえばすぐにその恩恵を忘れてしまうということを意味することわざです。
ここでの「笠」は雨を防ぐためにかぶったりさしたりする道具を意味します。
転じて、雨具の必要がなくなると笠のお世話になったことなどすぐに忘れてしまうというところから「雨晴れて笠を忘る」という表現が生まれたとされています。
その点が「喉元過ぎれば熱さを忘れる」に通ずるのではないでしょうか。
魚を得て筌を忘る
「魚を得て筌を忘る」は、目的を達してしまうとそれまでの苦労や手段を忘れてしまうということを意味することわざです。
ここでの「筌」は魚を入れておくために使用する「魚籠」という籠を意味します。
転じて、魚を釣ってしまえば魚籠のことなど忘れてしまうというところから「魚を得て筌を忘る」という表現が生まれたとされています。
その点が「喉元過ぎれば熱さを忘れる」に似ているのではないでしょうか。
「喉元過ぎれば熱さを忘れる」の対義語
ここからは「喉元過ぎれば熱さを忘れる」の対義語を紹介します。
羹に懲りて膾を吹く
「羹に懲りて膾を吹く」は、失敗に凝りて必要以上に用心することの例えです。
「羹」はやけどしてしまうほどの熱いお吸い物のことを意味します。
「膾」は生魚の肉を細かく切った冷たい食べ物のことを意味します。
つまり、熱い羹を飲んでやけどしたのを教訓として、冷たい膾であっても用心することを意味することわざです。
その点が「喉元過ぎれば熱さを忘れる」と相反するといえるでしょう。
一宿一飯の恩義を返す
「一宿一飯の恩義を返す」は、恩義を忘れてはならないということの戒めです。
「一宿」は旅先などで一晩泊めてもらうことを意味します。
「一飯」は食事を1回ご馳走になることを意味します。
その恩義を忘れずにいることを「一宿一飯の恩義を返す」と表現するわけです。
その点が「喉元過ぎれば熱さを忘れる」と反対といえるかもしれません。
ちなみに、昔は博徒の間で旅の途中で泊めてもらったりご飯をいただいたりすると「生涯の恩義とする」という仁義がありました。
今でもお世話になったら恩義は忘れてはならないという教えがあります。
現代では「一宿一飯の恩義」と略して使用することもあります。
よく耳にする言葉でもあるので、ぜひ覚えておいてはいかがでしょうか。
まとめ
「喉元過ぎれば熱さを忘れる」は2つの意味を持つことわざです。
一般的にはどのような苦痛も過ぎ去ってしまえば忘れるという意味で使用されます。
しかし、苦労した際に助けてくれた恩人のことを忘れてしまうという意味で使用されることもあります。
ある意味で教訓としても使用される言葉なので、ぜひその正しい意味は覚えておきたいところです。
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