ジャーナリストは“魔法の杖”を持っている・その1<明日のジャーナリズムへ>第1回【調査情報デジタル】

SNS全盛時代にあって、新聞やテレビなど伝統的な報道機関の持つ影響力や存在感は相対的に弱くなったと指摘される。しかし、健全な民主主義社会には専門的に報道に携わる組織あるいは個人が不可欠であることは論をまたない。そして、そうした人たちの取材報道活動=ジャーナリズムを時代にあわせてアップデートするために必要な議論の素材として、ジャーナリズム論の第一人者、専修大学ジャーナリズム学科の山田健太教授による連載をお届けする。
いまなぜ「ジャーナリズム」なのか~連載をはじめるにあたって~
1980年代から一貫して強まるメディア批判は2000年代に入り本格的なスマホ・SNS時代を迎え、伝統的な基幹メディアであるテレビ・ラジオや新聞は、もはや無用なメディアとすら評される事態になっている。昨今のいわゆる「オールドメディア批判」の内実は、従来の言論報道活動をむしろフェイクニュースであるとして否定する一方で、正しいかどうかとは関係なく刺激と分かりやすさを追及したネット上の情報発信が喝采を浴びる状況を現す言葉でもある。
これはまさに「ジャーナリズム」なるものが大きく変容していることを意味する。ジャーナリスト(記者)が現場に赴き、さまざまな立場の関係者の話に耳を傾け、事実をとことん追求し、チェックにチェックを重ねて偏見や誤りを排除し、自分たちが発信する知識や情報に責任をもって視聴者や読者に届けるという行為が、重要視されないということになる。
ネット上ではむしろ、嘘であればあるほど面白く、面白いほど拡散し、拡散するほどマジョリティとなり、多数化した情報・主張は正しい、すなわち真実とみなされるという事態が進行しているからだ。
こうした「嘘であるほど真実」という倒錯した現実を前に、ますますもっともらしい理由付けで、相手を激しく罵倒したり嘲笑したりすることが「正義」とみなされる傾向が進む。それは同時に、もともと薄かった日本社会におけるジャーナリストあるいはジャーナリズムに対するリスペクトが、いっそうなくなっていくということでもあるし、自由勝手な物言いが、言論の自由であるとのはき違えが進むことでもある。
民主主義社会がきちんと機能するための重要な要素は、その社会(コミュニティ)を構成する市民が十全な情報を入手でき、それらをもとに自由に議論し相互の納得の中で最善の選択肢を得ることができるということだ。そのためには制度的な保障として、言論・表現の自由がきちんと保障されていること、そうした自由を行使する真っ当なジャーナリズム活動が存在していて言論公共空間を提供し続けていることが必須である。
いまの日本社会(あるいはアメリカをはじめ世界の多くの国があてはまるともいえるが)は急速に、先に触れたとおりジャーナリズム活動が希薄化するとともに、その前提条件たる言論の自由も縮減する傾向を色濃く有している。
そうしたなかで、言論報道機関に属しジャ-ナリズム活動に従事する放送人・新聞人自身が、どんどん自信を失いつつある状況にある。テレビの作り手自身がテレビを見放し動画配信サイトに没頭したり、新聞の書き手が紙の新聞をそもそも手にすることすらない状況もある。
作り手自身が興味のない番組や新聞を、視聴者・読者がおもしろいと思うはずはないだろう。逆説的ではあるが、受け手が面白いと思う番組や紙面を作っていくためには、現場のジャーナリスト自身がもっと取材現場でエキサイティングな日常を送り、ワクワクしながら報道をすることに尽きる。
とりわけ若いジャーナリストがもっと元気が出る、好きなことができる取材・報道現場になるために、そしてシニアのちょっとくたびれてきたディレクターやデスクがもう一度生き生きとしたジャーナリズム活動を取り戻してもらうために、いくつかの議論の素材を提供していきたい。
もちろん、あくまでもきっかけであって、実際に一歩を踏み出すかどうか現場の皆さん次第であることは言うまでもない。そしてまたここで示す素材は、情報の受け手である一般市民にとって真っ当なメディア批判の材料となり、傍観的批判・否定ではなく一緒に強靭なジャーナリズムを社会に形成していくためのよりどころになることを願う。
そしてなにより生徒や学生の皆さんにとって、単なる情報処理能力としてのメディア・リテラシーを超えた、問題発見・解決を含む情報検証能力としての「ジャーナリズム・リテラシー」獲得のための一助になることを強く期待する。
なお、「ジャーナリスト」という呼称に抵抗がある放送人や新聞人、出版人も多いことと想像する。同様に、自分がしている番組作りや表現活動を「ジャーナリズム」でくくってほしくないと思う現場の皆さんも多いことであろう。一方で、伝統的な大手メディアである新聞・放送・出版という媒体の枠を超え、インターネットの世界で活躍するジャーナリストが数多く存在している。それからすると、ジャーナリズムやジャーナリストにこだわること自体の「時代遅れ」との声が聞こえてきそうだ。
しかしここでは、いったんそうした居心地の悪さは忘れて、場合によってはこれらのワードを自分なりの馴染みの言葉に置き換えて、自由で豊かな言論表現活動をどう持続させていけるか、そのためのある種の制度保障をどうすればよいかを考えることをしてほしい。
そのうえで、現時点で法社会制度の中に組み込まれている以上、その中核的な取材報道活動をジャーナリズムと呼ぶこと、それに従事するプロフェッショナルな専門職業人をジャーナリストと呼ぶことをお許し願いたい。
ジャーナリストが持つ数々の“魔法の杖”
はじめに日本国憲法の条文を紹介しておこう。すべてのジャーナリズム活動の起点は、この1行にあるからだ。
第21条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
ちなみに、続く第2項では「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない」と、検閲や盗聴を憲法レベルで禁止しており、本則の第1項で但書による例外を設けていないことと合わせ、世界の中で稀にみる「絶対的な表現の自由保障」をしている国である(注1)。
これは大日本帝国憲法時代に、表現の自由は現在同様に保障していたものの、「法律の範囲内」という但書による制限(注2)を設けたばかりに、治安維持法はじめ数々の戦時立法によって例外が設けられ、結果的に「原則と例外の逆転」が起きてしまい、表現の自由が広範に制限を受けてしまった苦々しい経験を踏まえての法のつくりである。
ちなみに多くの国では、こうした例外措置が当たり前であって、宗教国家では例えばイスラム教国家であればアラーや預言者ムハンマドを侮辱する行為は表現ではなく国家転覆行為とみなされるし、社会主義国家であればその支配政党を批判・否定する行為は表現ではなく暴力行為として決して認められないことになっている。
欧州各国における「闘う民主主義思想」として知られるネオナチ思想や言動を排除することも、それら行為が民主主義社会を破壊するものであるとして表現の自由の枠外におくことにしたもので、憲法保障の対象外だ。
その意味で日本におけるこの例外なき絶対的な言論の自由の保障自体が、強力な“魔法の杖(magic wand)”であることに違いないが、それ以外にも日本の場合は、数々のジャーナリズムを支える法制度を準備してきた。
一般には「特恵的待遇」と呼ばれるものであるが、こうしたある種の特別扱いは、単純に報道機関や記者を優遇するということではなく、あくまでも言論公共空間に適切な情報を提供し民主主義社会を維持・発展させるためのものであることはいうまでもない。いま風にいえば、私たちの「知る権利」に応え、市民に豊かな知識・情報を伝えるための工夫であるわけだ。
(注1)表現の自由条項以外に関連して、思想良心の自由(19条)、信教の自由(20条)、学問の自由(23条)を定める。
(注2)大日本帝国憲法29条 日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス
個人情報保護法と探偵業法にも“魔法の杖”
のちほど経営上の扱いについても触れることになるが、まずはジャーナリズム活動における“魔法の杖”から話を進めていきたい。最初は、法の条文で明確に特別扱いを規定しているものだ。ここでは2つの法律をあげる。いずれも通常の取材活動を想定すれば、あまりにも当たり前のことで、なぜわざわざ法律で定める必要があるのかと思うほどであるが、それは逆に言えば社会にその「当たり前」が浸透している結果でもある。
第1は個人情報保護法で、その57条(注3)で「適用除外」が定められている。
一般に個人情報の収集に際しては、本人から直接しかも利用目的を明示することが義務付けられているが、例えば政治家の汚職を取材する場合、その証拠となる情報を本人から許諾をとって直接提供してもらうことはありえないだろう。当然、第3者からこっそり入手する類いのものだ。そうした当たり前の取材行為を、法律上定めたものである。
同様の規定は探偵業法にもみてとれる。2条(注4)の定義において、わざわざ記者活動を除外している。それは、取材対象者の自宅等での待ち伏せや追尾行為が取材のイロハであることを勘案し、そうした一連の行為を包括的に除外することにしたわけだ。
ちなみになぜそこまで神経質になる必要があるかといえば、これらの法律ができた時期を考えると合点がいくはずだ。
個人情報保護法が2003年、探偵業法が2006年の制定だが、立法作業が行われていた時期には人権擁護法案(注5)が検討されていた。同法案は当時の与野党である自民・民主が競って法案作りをしたものであったが、いずれもその特徴は政治家への執拗な取材や報道を人権侵害として取り締まるという内容をもつものだった。まさに、政治家犯罪の追及を回避するための施策が与野党共通して立案されるような状況だったからこそ、報道界挙げての反対活動や政治折衝の結果、規制法案は廃案となり、一方で関連法には除外規定が設けられたということになる。
(注3) 第57条 個人情報取扱事業者等及び個人関連情報取扱事業者のうち次の各号に掲げる者については、その個人情報等及び個人関連情報を取り扱う目的の全部又は一部がそれぞれ当該各号に規定する目的であるときは、この章の規定は、適用しない。
一 放送機関、新聞社、通信社その他の報道機関(報道を業として行う個人を含む。) 報道の用に供する目的
二 著述を業として行う者 著述の用に供する目的
(以下略)
(注4) 第2条第2項 この法律において「探偵業」とは、探偵業務を行う営業をいう。ただし、専ら、放送機関、新聞社、通信社その他の報道機関(報道(不特定かつ多数の者に対して客観的事実を事実として知らせることをいい、これに基づいて意見又は見解を述べることを含む。以下同じ。)を業として行う個人を含む。)の依頼を受けて、その報道の用に供する目的で行われるものを除く。
(注5) 2002年小泉内閣が提出した人権擁護法案、2005年民主党が提出した人権侵害救済法案、2012年野田内閣が閣議決定した人権委員会設置法案がある。いずれも濃淡はあるが取材報道規制条項を含む。
先達の不断の努力で得た「当たり前」のようでも重要な制度
このように、何気ない、いまとなっては当たり前のような規定こそが、ジャーナリズム活動を支える重要な制度であって、しかもそれは先達の不断の努力の結果であることを知ることで、その大切さを実感できるのではないだろうか。冒頭に記した憲法の「言論の自由」の護り手であるとともに担い手であるのが、ジャーナリスト(ジャーナリズム活動)であることにいま一度思いを致してほしい。
そしてもし、その制度を壊すような動きがあればいち早くカナリア役を務め社会に注意喚起するとともに、実際に自由を守るための具体的な行動をすることが必要だ。また同時に、そうした自由を最大限活用し、少数者の声や隠されている事実を社会に届けることをし続けなくては、自由がただの飾り物としてどんどん干からびていくことだろう。
そしてもう1つ大切なのは、2000年当時はまだぎりぎり、報道界の自由を希求する声に市民社会が呼応して、一緒になって取材・報道を制限する法案に対して反対をしてくれたことである。残念ながらもしいま同じような法案が提出されたら、簡単に成立するかもしれないし、一方で除外規定を設ける話には市民の側から特別扱いすることへの反発が生まれるかもしれない。
まさに、リスペクトをしてもらうためのジャーナリストの側の努力も必要ということに他ならない。それは“魔法の杖”の「使い方」の問題である。次回はこうした市民に対する説明がどういう場合に必要なのかも含め、引き続き杖の話を続ける。
<執筆者略歴>
山田 健太(やまだ・けんた)
専修大学ジャーナリズム学科/大学院ジャーナリズム学専攻教授。
専門は言論法、ジャーナリズム学。
自由人権協会代表理事、日本ペンクラブ副会長。放送批評懇談会、情報公開クリアリングハウスなどの各理事を務める。BPO人権委員会など歴任。
主な著書に、『法とジャーナリズム 第4版』(勁草書房)、『ジャーナリズムの倫理』(いずれも勁草書房)、『沖縄報道~日本のジャーナリズムの現在』(ちくま新書)、『転がる石のように~揺らぐジャーナリズムと軋む表現の自由』(田畑書店)ほか多数。
専修大学で一般公開の「表現の自由研究会」を開催中。
【調査情報デジタル】
1958年創刊のTBSの情報誌「調査情報」を引き継いだデジタル版のWebマガジン(TBSメディア総研発行)。テレビ、メディア等に関する多彩な論考と情報を掲載。原則、毎週土曜日午前中に2本程度の記事を公開・配信している。