手を尽くしても応じないことを「笛吹けども踊らず」と言います。
これはあれこれと用立てても動いてくれないことの表現です。
しかし、そもそもこの言葉はどこから来たのでしょうか?
今回はそれら「笛吹けども踊らず」について解説します。
特にここでは由来や語源も含めて詳しく説明します。
「笛吹けども踊らず」とは
まずは「笛吹けども踊らず」について見ていきましょう。
「笛吹けども踊らず」の意味
「笛吹けども踊らず」とは、手を尽くして働きかけても応じないことの例えです。
人に何かをさせるつもりで様々な手立てを調えて誘っても、その人が動いてくれないことを言った表現とされます。
端的に言うなら、段取りを整えても相手が誘いに乗らない様子のこと指す言葉です。
もしくは上手に誘っても相手が応じないことや動かないことを表します。
これらは別の表現で「笛吹けど踊らず」とも言われます。
どちらも同じ意味なので、そこは好きな方を使用して問題ありません。
米津玄師さんが作詞作曲した歌のタイトルにも用いられている
「笛吹けども踊らず」は米津玄師さんの歌のタイトルに使用されています。
米津玄師さんはこの歌の作詞作曲を手掛けており、該当の楽曲に関してはキリスト教をテーマにしているとされています。
事実、聖母や聖書に関わる内容が楽曲で表現されているのです。
むしろ米津玄師さんの影響で「笛吹けども踊らず」という言葉を知った人も多いかもしれません。
ちなみに、これらの言葉は表題曲の「サンタマリア」にも掛けているとも考えられます。
「笛吹けども踊らず」の由来
では「笛吹けども踊らず」はどこから来たのでしょうか。
由来は新約聖書の一節から
「笛吹けども踊らず」は「新約聖書-マタイ伝-福音書第11章」から来ていると考えられています。
そこに「われら笛ふけどもなんじら踊らず」と記載されています。
「新約聖書-馬太伝-福音書」にも似たような表記が存在します。
そこには「われら笛ふけども爾曹おどらず哀をすれども爾曹胸うたずと云に似たり」とあるのだとか。
これらの表現をわかりやすく訳すと「僕たちは君たちのために笛を吹いたのに踊ってくれなかった」「葬式の歌を歌ったのに悲しんでくれなかった」となります。
それら新約聖書の表現から来たのが「笛吹けども踊らず」です。
ちなみに「新約聖書-マタイ伝-福音書第11章」には、バプテスマのヨハネについてイエスが教えを説く様子が描かれています。
バプステマとはキリスト教への入信の儀式や洗礼のことです。
ヨハネとはキリストが来られることを預言し御国の福音を伝えた人物のことです。
それらヨハネはキリストの来訪に際して準備を行った人物としても知られています。
その様子を描いているのが「新約聖書」の第11章となるのです。
「聖書」と「新約聖書」とは同じもの?別物?その違いは?
「聖書」と「新約聖書」は言葉だけなら同じものを指します。
しかし、いわゆる「聖書」とは「旧約聖書」のことを表すことが多いです。
そのため、基本的に「新約聖書」とはまた別物とも言えます。
そもそも旧約新約それぞれの「約」という漢字は「訳」のことではありません。
人によっては旧い訳のものが「旧約聖書」で新しい訳のものが「新約聖書」だと勘違いしている方もいます。
しかし、それはそもそもが間違っているということです。
これらは旧い契約と新しい契約のことをそれぞれ意味しています。
つまり、言葉は似ているものの内容の異なるので注意しましょう。
結論として「聖書=旧約聖書」であり「新約聖書」とはまた別物だと覚えておくと安心です。
まとめ
「笛吹けども踊らず」はキリスト教に関連する言葉です。
中でも「新約聖書」の11章にある言葉から来ています。
これらは手を尽くしたものの応じないことを言います。
実際にあれこれと誘っても動いてくれないことを指す言葉です。