「戦争とは人が人を殺すこと」戦後80年を超えて…101歳の語り部が明かす壮絶なシベリア抑留 伝えることは「生き残った者の責任」

「戦争とは人が人を殺すこと」生き残った者の責任
「戦争は絶対にだめだ。後の世代に伝え続けなければならない。生き残った者の責任だと思っています。戦争とは、人が人を殺すことです」
【写真で見る】出征前の家族写真(昭和20年 西倉さん19歳)
101歳でも「語り部」を続けているシベリア抑留体験者がいます。西倉勝(にしくら・まさる)さん。終戦の2年前、1943(昭和18)年から西倉さんは、飛行機のエンジンを作る都内の工場で働いていました。
精神教育で何の疑問もなく…
そんなある日、届いたのが「赤紙」召集令状。軍人が足りなくなり、召集年齢が引き下げられたのです。19歳だった西倉さんは「男子たるもの軍人として国のために尽くす」と思っていました。精神教育が徹底されていて、何も疑うこともなく「いよいよ行くのだ」と覚悟していたのです。「愚かな時代だった」と西倉さんは振り返ります。
1945(昭和20)年1月、新潟県の実家の家族に別れを告げると、西倉さんは朝鮮半島へ渡ります。訓練ののち、ソ連との戦いに備えて山中で陣地を構築していました。
「いつ殺されるかわからない」握りしめていた手榴弾
朝鮮半島北部、ソ連との国境付近で終戦を迎えた西倉さんでしたが、「いつ殺されるかわからない」と自決も覚悟し、手榴弾を握りしめていました。道路には民間人の遺体が転がっていました。「その光景はいまも瞼に焼きついています。涙が自然と出る」。
西倉さんは語ります。
「日本の戦車はおもちゃのようで、ソ連の戦車はその何倍も大きかった。『これは勝てる戦争じゃない』。はっきりそう思いました」
「帰す」と騙されシベリアへ
武装解除を受け、収容された西倉さんたちは、さらに歩かされました。「日本へ帰す」と言われ、4日間ほど野宿をしながら歩いた末、貨車に乗せられました。着いた先はソ連領、シベリアでした。帰れなかったのです。その瞬間、収容所には、仲間たちの悲鳴が響きました。
人間として扱われなかった抑留生活
シベリアでの抑留は3年間で、重労働が続きました。1年の3分の2は冬です。極寒の中、栄養も足りず、多くの仲間が命を落としました。最初の1年で亡くなった人が全体の7割とも言われます。
「寒さ、飢え、疲労――人間として扱われているとは思えませんでした」と西倉さんは言います。
「それでも『死んでたまるか』と思っていました。家族に会うまでは生きる。ここで倒れてどうする。親が丈夫に産んでくれたことに感謝しながら、必死で耐えました」
101歳の語り部として…
昭和23(1948)年、ナホトカから京都府の舞鶴港に復員した西倉さん。帰国後は仕事をし、退職し、今は「語り部」として体験を語っています。
「皆さんや、皆さんの子どもが、再び軍隊に行くような時代になったら終わりです。私は、そう強く思っています」
7月20日(月)、東京・浅草の雷5656会館で俳優・今江大地さん(STARTO ENTERTAINMENT)が特攻隊員を演じた舞台『パイロット』の上映会が行われます。特攻隊員の目線で平和をテーマに、大戦中と現代の日本の対比を描いた作品。劇中でも西倉さんのインタビューが映像で登場します。
<西倉 勝(にしくら まさる)さんプロフィール>
1925(大正14)年5月、新潟県生まれ。1945(昭和20)年1月に入営、朝鮮半島北部とソ連との国境付近に配属される。終戦後、ソ連軍により武装解除され、コムソモリスクで抑留生活を送る。抑留中、土木工事、製材工場、伐採作業、住宅建設、農作業等、様々な労働に従事。1948(昭和23)年7月、ナホトカから京都府の舞鶴港に復員。