日大を卒業して3年目の髙橋渚(24、センコー)が、停滞していた女子走高跳で世界に飛び立とうとしている。陸上競技日本選手権(6月27〜30日:新潟)の結果次第ではパリ五輪の出場資格を得られる。
パリ五輪の参加標準記録は1m97で、日本記録(1m96)よりも高く設定されている。その記録は現状難しいが、髙橋には自己記録と同レベルの高さを安定して跳ぶ武器がある。日本選手権の結果と他国の選手次第ではRoad to Paris 2024(標準記録突破者と世界ランキング上位者を1国3人でカウントした世界陸連作成のリスト)で出場選手枠内に入り、出場資格を得る可能性が残されている。
他国選手のポイントはコントロールできるものではない。髙橋が日本選手権でできることは、「今やっていることの精一杯の全力を出し切って、自己記録を更新する」ことだ。その結果が、2013年を最後に途絶えている1m90台になる可能性がある。
印象に残っている日本選手権は「初めて1m80を跳んだ大学1年時」
髙橋にとって日本選手権は、競技人生の節目となることが多かった。過去の日本選手権戦績は以下の通りである。
17年(高3):7位・1m74
18年(大1):2位・1m80
19年(大2):3位・1m74
20年(大3):ケガのため欠場
21年(大4):4位・1m73
22年(社1):1位・1m81
23年(社2):1位・1m84
一番印象に残っている日本選手権は「初めて1m80を跳んだときです」と、大学1年時の18年大会を挙げた。東京高3年生だった17年大会にも出場していた。同じ年にインターハイに優勝するなど、高校ナンバーワンの選手だった。当時は東京高の醍醐直幸先生(現東海大跳躍ブロックコーチ、2m33の前日本記録保持者)の指導を受けていた。日大に進学したのも、醍醐先生の指導を受け続けられるからだった。1m80は日本トップレベルの証しとなる記録で、醍醐先生とやってきたことが1つの形になったと感じられた。
しかしシーズン終了後に髙橋は1人立ちし、大学の環境で強化に取り組み始めた。「私が醍醐先生に寄りかかり過ぎていた」という自覚があった。指導者に頼り切っている選手は、海外など慣れない環境に行ったときに力を発揮できないし、自身の成長も頭打ちになるケースが多い。
大学2年時の髙橋は自己記録を更新できなかったが、1m75〜78を安定して跳んでいた。新しいスタイルが失敗したわけではなかった。3年時はコロナ禍で試合が少なかったことに加え、足首の大きなケガもあってシーズンベストは1m74と低迷した。
そして迎えた4年時の日本選手権で「一番悔しい思いをした」という。「ケガも治して絶好調だったのに、思った力が出せませんでした。(最終学年の)4年生なのに記録も良くないし、順位も4位で“このまま終わりたくない”と強く思った大会です。何かを変えないといけない、と考えました」
大学4年のシーズン途中から、髙橋は醍醐奈緒美コーチの指導を受け始めた。醍醐直幸先生の夫人で、現役時代は三段跳で日本トップレベルの選手だった。東京高のスタッフとしても、多くの高校生を全国レベルに導いた女性指導者だ。
髙橋の記録が安定しているのは「内容重視」の結果
走高跳の前日本記録保持者の醍醐直幸先生でなく、醍醐奈緒美コーチに指導を依頼した理由は何だったのか。「高校の頃に飛田先生(醍醐奈緒美コーチの旧姓)が、女子選手の体について細かく話をしてくれました。バランスのことや、ここの筋力が弱くなりがちだ、ということなどです。飛田先生に一から見てもらいたい、と日本選手権が終わってすぐに思いました」
大学4年時も自己記録は更新できなかったが、9月の日本インカレに、自己記録に1cmと迫る1m79で優勝した。社会人1年目の22年は1m81、1m83、1m84と自己記録を更新。1m80台は室内も含め6試合と、学生時代より明らかに一段上のレベルで安定していた。
社会人2年目の昨年は3月に沖縄で1m85の自己新を跳ぶと、日本選手権は1m84で2連勝。7月のアジア選手権は1m83で4位に食い込んだ。9月の全日本実業団陸上こそ津田シェリアイ(27、築地銀だこ)に敗れたが、10月には1m85と自己タイを跳んだ。出場した9試合全てで1m80以上をマークしてみせた。
ここまで安定して自己記録に近い高さを跳ぶ選手は、久しぶりに現れた気がする。安定している理由を醍醐奈緒美コーチは「内容にこだわっているから」だと説明する。「もちろん記録が出ればうれしいのですが、そこに目指してきた内容があるかのかどうか、やってきたことを上手く体現することができているか、にこだわってきました。そこが本当に上手くいき始めたのが今年です」
室内で1月に1m84を跳ぶと、2月にも1m86と自己記録を1cm更新した。2月にはニュージーランドで1m87、5月の静岡国際では1m88と自己記録を伸ばし続けている。6月のニューヨークシティ・グランプリは気象条件に恵まれなかったが、世界陸上決勝進出選手たちに混じって1m87の2位と健闘した。
「ブレない選手なんです。試合においても、練習においても」と醍醐奈緒美コーチ。「本人の考え方がしっかりしてきて、行動が変わってきています。海外でも小さな大会でも、自分の動きに集中できるようになったことが安定している理由でしょうね。心のモチベーションがあるからだと思います」
髙橋は自分の考えが揺れ動いていた頃に、「本当に情けない試合をしていたから」と成長の背景を話す。「今は世界の舞台で戦いたい、という強い気持ちがあります。そこに到達していない段階でブレていたら、目標に手が届くわけがありません。もう、情けない試合は絶対にしたくない、と思っています」
外国の試合で周りの状況がわからなくなっても、慌てずに対処できるようになった。「海外ということを楽しむように意識しています。周りを落ち着いて見たら状況はだいたいわかるので、あとは自分のやるべきことに集中できます」最初から海外試合や大舞台に強い選手もいるが、髙橋は気持ちの持ち方を工夫することで力を発揮できるようになった選手と言っていい。
前戦のニューヨークで1m90に手応え
競技的な部分でいえば、ニューヨークシティの試合内容が「1m90以上の力がある」(醍醐奈緒美コーチ)ことを示していた。
2月のニュージーランドまでは、練習の大半を助走を安定させることを目的に行った。助走最後の局面で体を内傾させるための走りにフォーカスしたのだ。帰国後に踏み切り位置やバーに向かう角度など、踏み切り技術についても取り組み始めた。跳躍を見た醍醐直幸先生からアドバイスをもらい、そのために必要なトレーニングを醍醐奈緒美コーチが考案することもある。
静岡国際で踏み切り技術を試す予定だったが、「助走が走れすぎた」(醍醐奈緒美コーチ)ために、試すことができなかった。しかしニューヨークシティ・グランプリまで1か月の期間があり、助走を踏み切りにうまくつなげられる兆候が現れ始めた。
「アップ中は雨が降りましたし、ピットは(左脚踏み切りの)渚には向かい風でしたが、向かい風と感じさせないくらい助走もよくて、踏み切りとも噛み合っていました。1m84まではそこまで良くなかったんですが、成功した1m84の3回目から修正でき始めて、1m87を2回目で成功した跳躍は1m90が跳べる内容でした」
1m90は残念ながら、「1m87が良すぎた」ためにクリアできなかったが、一度跳んだ高さは安定して跳ぶことができるのが髙橋という選手である。踏み切り位置は想定よりバーに近かったが、それでもバーに向かう角度は正しく踏み切ることができた。日本選手権の条件が多少悪くても、1m90をクリアする準備が整った。
髙橋自身、日本選手権を良い状態で迎えられると感じている。「ここまで良い流れできて、やってきた過程が自信になっています。それをどこまで出せるのか、緊張もありますがワクワクも大きいです。一番合わせたい日本選手権です」
最初に紹介したように、一番印象に残っている日本選手権は1m80を初めて跳んだ大学1年時の大会だった。今年初めて1m90を跳ぶことができたら、また一段上のステージに上がった大会と位置付けられる。髙橋にとってまた違った意味で、さらに強く印象に残る日本選手権となるのではないか。
(TEXT by 寺田辰朗 /フリーライター)