来年1月12日初日の大相撲初場所(東京・国技館)の新番付が発表された。先場所、14勝1敗で優勝した琴桜が東、千秋楽の相星決戦で敗れて13勝2敗だった豊昇龍が西の大関に座る。前場所大関で13勝以上した大関が2人いるのは史上8回目。ともに初場所は綱とりに挑むことになる。
稀勢の里(現二所ノ関親方)以来となる日本出身の横綱を目指す琴桜は、祖父の先代琴桜と同じ大関5場所目、27歳での初優勝だった。だが、その先代は悲願を達成するまで、その後約5年を要し、3度目の好機に遅咲きの32歳で綱を手にした。
初の綱挑戦となった1968年秋場所は、序盤で2敗した後に7日目の高見山戦で右手親指を捻挫。4敗目を喫した10日目の時葉山戦で左足薬指と小指の間を骨折。無念の休場となり、「なんとか出たいと思ったが、どうにもならないので休場する。本当に残念」のコメントを出している。
2度目の賜杯を抱いた69年春場所に続く夏場所では、10日目まで2敗で優勝争いに加わっていながら重圧に屈したのか、11日目から5連敗。結局、8勝7敗で終わっている。
その後は3年半近く低迷期が続いた。3度のカド番を経験するなど、9勝しか出来ない「96(クンロク)大関」と揶揄され、何度か引退が頭をよぎったこともあったという。
高校までは柔道部。それで力士になった当初は投げ技を多用していた。だが、足首の骨折等を経て、「投げはけがにつながる」とまわしを取ると叩かれるようになり、怒涛の押し相撲を身に着けた。タイプは違うが、千代の富士も肩の脱臼癖を克服するために強引な投げ一辺倒の攻めから前回しを取っての速攻に活路を見出して大成した。やはり相撲は前に出る形ができてこそ、怪我も少なくなる。そこからは「猛牛」の異名をとるほどの頭からのぶちかましと、のど輪攻めで大関まで番付を駆け上がった。
生真面目な性格で稽古場でも一切手を抜かない。質、量とも豊富な稽古をして地力は誰もが認めるところ。「稽古場横綱」とも呼ばれていた。だが、受けの弱さ、タイミングを外された時にあっけなく土俵に落ちることもあり、「強さともろさの同居は気持ちの弱さから」との指摘が多かった。
しかし、72年九州場所で3度目の優勝を果たすと、続く73年初場所でも14勝1敗で連続優勝。この2場所は、同時期に綱を張っていた北の富士さんが生前、「立ち合いが走ってくるんだもの。怖かったよ」というほどの踏み込みからの攻めが復活。
見事に第53代の横綱を射止めた。その頃本人は、「弱い、弱いと言われて、肩身の狭い思いをした女房と娘のことを思っていた」と話したという。娘というのは長女の真千子さん。現在の2代目琴桜の母、佐渡ケ嶽部屋(師匠・元関脇琴ノ若)の女将さんだ。
時代はちょうど「貴輪(きりん)」と称された元大関貴ノ花(元横綱3代目若乃花、貴乃花の父)と、元横綱輪島の2人が台頭してきた頃だった。72年九州は2人の新大関場所。続く初場所も、話題の一番手は琴桜ではなかった。
古参大関には、そんな新興勢力への意地も、あっただろうが、話によると稽古場でいつも全力出し切る琴桜は、伝統的な稽古に固執せず、当時では珍しいランニングを取り入れたりしていた。初場所前は「世間がなんと言おうと、ワシははっきりと横綱を意識している。たとえ1場所でも横綱になりたい」。新しい鍛錬法も取り入れ、意欲を語ったという。
心優しく、努力と忍耐を忘れなかった先代に、当時の角界のご意見番であった横綱審議委員会は、「大関での2場所連続優勝だし、まじめな人柄、横綱になる十分な貫禄と資格を備えている」と満場一致で推挙を決めた。
さて、2代目である。取り口は馬力と気迫で攻めに徹した先代というよりも、長い手足を活かして懐の深さで負けない相撲が持ち味だった父である師匠(琴ノ若)に似ている。
昇進への共通点は、九州場所で14勝での優勝が起点になっていることと、新興勢力として大関2場所目の大の里の存在があることだろう。苦労して「3度目の正直」で頂点に上り詰めた祖父に対し、体重が3㎏増えて181㎏になった孫は初挑戦の初場所でどんな結果をもたらすのか。実に待ち遠しい。
(竹園隆浩 スポーツライター)